ミャンマーは「ビルマ」だ。いち早く軍事政権を認めた日本の民が撃たれるとは。(哲




2007ソスN9ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2892007

 籾殻より下駄堀り出してはき行きし

                           中田みづほ

秋の農家の風景。「写生」は瞬間のカットにその最たる特性をみるが、この句のような映像的シーンの中での時間の流れも器に適合したポエジーを提供する。掘って、出して、履いて、歩いていく。一連の動作の運びが、この句を読むたびに再生された動画のように読者の前に繰り返される。生きている時間が蘇る。同様の角度は、高野素十の「づかづかと来て踊子にささやける」や「歩み来し人麦踏をはじめけり」も同じ。みづほと素十が同じ東大医局勤務だったことを考え合わせるとこの符合は興味深い。僕らが日常的に目にしていながら、「感動」として記憶に定着しないひとこま、つまりは目にしていても「見て」いない風景を拾い出すことが、自己の「生」を実感することにつながる。そこに子規が見出した「写生」の本質があると僕自身は思っている。見たものを写すという方法を嗤う俳人たちがいる。無限の想像力で、言葉の自律性を駆使して創作すればいいのだと。ならば聞こう、それらを用いて、籾殻の中から下駄を掘り出すリアリティに匹敵できるか。そこに俳句における「写生」理念の恐ろしいほどの強靭さがある。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)


September 2792007

 銀河から鯨一頭分の冷え

                           大坪重治

は体長が20〜30メートルに達する巨大な海の生き物。現実にいる動物だが、その全容を見た人は少ないだろう。このごろは近海で鯨ウォッチングが出来るらしいが、運よくめぐり合えたとしても海面からのぞくのは頭とか尾の一部だろうし、犬や猫のようにこのぐらいと手を広げて大きさを示せるものでもない。日常から遠く、どこか夢のある生き物だ。その鯨と銀河の意外な結びつきがいい。一頭分の鯨の嵩を「冷え」の分量に喩えているのも面白い。肉眼で銀河を見るには街から遠い山奥でないと無理だろう。人里はなれた場所で首が痛くなるぐらい頭をそらして見上げる。目がまわりの暗さに慣れるにつれ、空の真ん中を流れる光の帯がだんだん濃くなってくる。闇に浮かび上がってくる数知れぬ星々に日々追われる現実時間と次元の違う時空間が広がる。冬の冷たさは足元からきりきり這い登ってくるが、この句の「冷え」は銀河のきらめきが秋の夜の冷気になって降りてくるみたいだ。鯨の深みある黒く大きな身体のつるつるした肌触り。冷えの分量を「鯨一頭分」と言い切ったことで銀河から泳ぎ出た鯨が夜空そのものになって見上げる人に覆いかぶさるようであり、銀河の冷気が鯨に形を変えてプレゼントされたようにも感じられる。『直』(2004)所収。(三宅やよい)


September 2692007

 大花野お尋ね者の潜むなり

                           三沢浩二

の草花が咲き乱れている広大な野である。いちめんの草花に埋もれるようにしてお尋ね者が潜んでいるという、ただそれだけのことだが、この「お尋ね者」を潜ませたところに作者の手柄がある。今はあまり聞かない言葉だけれど、読者はその言葉に否応なくとらえられてしまう。昔も今も世を憚るお尋ね者はいるのだ。さて、いかなるお尋ね者なのかと想像力をかきたてられる。そのへんの暗がりや物陰に潜む徒輩とちがって、大花野が舞台なのだから大物で、もしかして風流を解する徒輩なのかもしれない。そう妄想するとちょっと愉快になるけれど、なあに小物が切羽詰って逃げこんだとする解釈も成り立つ。草花が咲き乱れている花野はただ美しいだけでなく、どこかしら怪しさも秘めているようでもある。浩二は岡山県を代表する詩人の一人だった。「お尋ね者」に「詩人」という“徒輩”をダブらせる気持ちも、どこかしらあったのかもしれない――と妄想するのは失礼だろうか。年譜によると、浩二は昨年七十五歳で亡くなるまでの晩年十年間ほど俳句も作り、俳誌で選者もつとめた。追悼誌には自選238句が収録されている。掲出句の次に「悪人来菊人形よ逃げなさい」という自在な句もならぶ。橋本美代子には「神隠るごとく花野に母がゐる」の句がある。この「母」は多佳子であろう。花野には「お尋ね者」も「母」も潜む。「追悼 詩人三沢浩二」(2007)所載。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます