久しぶりに年上の総理大臣が登場する。お手並み拝見、相当にしぶとそうだ。(哲




2007ソスN9ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2492007

 それとなく来る鶺鴒の色が嫌

                           宇多喜代子

句の技法用語では何と言うのか知らないが、たまにこういう仕掛けの句を見かける。まず「それとなく来る」のは「鶺鴒(せきれい)」だ。読者は「そう言えば鶺鴒は『それとなく』来る鳥だな」とすぐに合点して、それこそ「それとなく」次なる展開を待つ。で、「鶺鴒の色」と来ているから、ここでおそらくは読者の十人が十人ともに、この句の行方がわかったような気にさせられてしまう。鶺鴒には「石叩き」の異名もあるように、尾の振り方に特長があり、俳句でも尾の動きを詠んだ句が多いのだが、作者はあえてそれを避け、「色」の美しさや魅力を言うのだろうと思ってしまうのだ。ところが、あにはからんや、作者はその「色が嫌(いや)」とにべもないのだった。すらすらっと読者を引き込んできて、さいごにぽんとウッチャリをくらわせている。つまり、読者の予定調和感覚に一矢報いたというわけだ。世のつまらない句の大半は、季語などを予定調和的にしか使わないからなのであって、そういう観点からすると、掲句はそうした流れに反発した句、凡句作者・読者批判の一句とも言えるだろう。よく言われることだが、日本語には最後まで注意を払っていないと、とんでもない誤解をすることにもなりかねない。俳句も、もちろん日本語だ。ただそれにしても、鶺鴒の色が嫌いな人をはじめて知った。勉強になった(笑)。「俳句」(2007年10月号)所載。(清水哲男)


September 2392007

 夕刊に音たてて落つ梨の汁

                           脇屋義之

を食べた汁が新聞に落ちる、それだけのことを描いただけなのに、読んだ瞬間からさまざまな思いが湧いてきます。句というのは実に不思議なものだと思います。たしかに梨を食べるのは、日が暮れた後、夕食後が多いようです。一日の仕事を終えてやっと夕飯のテーブルにつき、軽い晩酌ののち、ゆっくりと夕刊を開きます。そこへ、皿に載った四つ切の梨が差し出されます。蛍光灯の光が、大振りな梨の表面を輝くばかりに照らしているのは、果肉全体にゆき渡ったみずみずしさのせいです。昨今の政治情勢でも読みふけっているのでしょうか。「こんなふうに仕事を放り投げられたら、ずいぶん楽だろうなあ」とでも思っているのでしょうか。皿のあるあたりに手を伸ばし、梨の一切れを見もせずに口に運び、そのままかぶりつきます。思いのほか甘い汁が口を満たし、その日の疲れを薄めるように滲みてゆきます。意識せずに口を動かす脇から、甘い汁がこぼれ落ち、気が付けば新聞を点々と黒く染めています。静かな夜に好きな梨を食することができるというささやかな幸せが、新聞記事の深刻さから、少しだけ守ってくれているように感じられます。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 2292007

 桔梗の咲く時ぽんといひさうな

                           千代尼

当にそうだ、と読んだ瞬間思ったのだった、確かに、ぽん、な気がする。ききょう(きちこう)の五弁の花びらは正しく、きりりとした印象であり、蕾は、初めは丸くそのうちふくらみかけた紙風船ようになり、開花する。一茶に〈きりきりしやんとしてさく桔梗かな〉の一句があるが、やはり桔梗の花の鋭角なたたずまいをとらえている。千代尼は、加賀千代女。尼となったのは、五十二歳の時であるから、この句はそれ以降詠まれたものと思われる。そう思うと、ふと口をついて出た言葉をそのまま一句にしたようなこの句に、才色兼備といわれ、巧い句も多く遺している千代女の、朗らかで無邪気な一面を見るようである。時々吟行する都内の庭園に、一群の桔梗が毎年咲くが、紫の中に数本混ざる白が、いっそう涼しさを感じさせる。秋の七草のひとつである桔梗だけれど、どうも毎年七月頃に咲いているように思い、調べてみると、花の時期はおおむね、七月から八月初めのようで、秋草としては早い。そういえば、さみだれ桔梗といったりもする。今年のようにいつまでも残暑が続くと、今日あたり、どこかでまだ、ぽんと咲く桔梗があるかもしれない。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)




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