思潮社の「現代詩文庫」が俳句と短歌も入れるそうだ。業界では波紋を呼びそう。(哲




2007ソスN9ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2292007

 桔梗の咲く時ぽんといひさうな

                           千代尼

当にそうだ、と読んだ瞬間思ったのだった、確かに、ぽん、な気がする。ききょう(きちこう)の五弁の花びらは正しく、きりりとした印象であり、蕾は、初めは丸くそのうちふくらみかけた紙風船ようになり、開花する。一茶に〈きりきりしやんとしてさく桔梗かな〉の一句があるが、やはり桔梗の花の鋭角なたたずまいをとらえている。千代尼は、加賀千代女。尼となったのは、五十二歳の時であるから、この句はそれ以降詠まれたものと思われる。そう思うと、ふと口をついて出た言葉をそのまま一句にしたようなこの句に、才色兼備といわれ、巧い句も多く遺している千代女の、朗らかで無邪気な一面を見るようである。時々吟行する都内の庭園に、一群の桔梗が毎年咲くが、紫の中に数本混ざる白が、いっそう涼しさを感じさせる。秋の七草のひとつである桔梗だけれど、どうも毎年七月頃に咲いているように思い、調べてみると、花の時期はおおむね、七月から八月初めのようで、秋草としては早い。そういえば、さみだれ桔梗といったりもする。今年のようにいつまでも残暑が続くと、今日あたり、どこかでまだ、ぽんと咲く桔梗があるかもしれない。「岡本松濱句文集」(1990・富士見書房)所載。(今井肖子)


September 2192007

 汝を泣かせて心とけたる秋夜かな

                           杉田久女

分の心の暗部を表白する俳句が、大正末期の時代の「女流」に生まれていたのは驚くべきことである。厨房のこまごまを詠んだり、自己の良妻賢母ぶりを詠んだり、育ちの良い天真爛漫ぶりを演じたり、少し規範をはみ出すお転婆ぶりを詠んだり、当時のモガ(モダンガール)を気取ったりの作品は山ほどあるけれど、それらは、どれも「男」から見られている「自分」を意識した表現だ。それは当時の女流の限界であって、そういう女流を求めていた男と男社会の責任でもある。今においては、「女流」なんて言い方は時代錯誤と言われそうだが現代俳句においてどれほど意識は変革されたのか。ここからここまでしか見ないように、詠わないようにしましょうと啓蒙し、自分は自在に矩を超えて詠んだ啓蒙者のいた時代は終わった。自ら進んで規範に身をゆだね啓蒙される側に立つのはもうやめよう。男も女も。われらの前にはただ空白のキャンバスが横たわっているのみである。『杉田久女句集』(1951)所収。(今井 聖)


September 2092007

 長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず

                           伊丹三樹彦

誌「青群」に収録された伊丹三樹彦と公子の「神戸と新興俳句」の対談が面白い。十代の頃より日野草城の主宰する「旗艦」に参加した三樹彦が新興俳句の勃興期をリアルタイムで経験した話を収録している。少年だった三樹彦は数ある俳誌の中で俳句雑誌らしからぬダンスホールやヨットの見える鎧窓などをデザインしたハイカラな表紙に引かれ「旗艦」に参加したという。戦前の神戸は横浜と並ぶ国際港で、異国文化が真っ先に入ってくる場所でもあったので、モダンなものを詠み易い雰囲気があったのだろう。川名大の「新興俳句年表」を調べると、掲句は昭和13年の作になっている。「周りはもうみんな灯を消してしまっているのに、その楽器店だけは煌々と照らしておりまして、音を発する楽器がまったく音を発しない。そういう存在になって、なんとなく不気味であるというふうな…」という印象のもとに書かれた句であると対談の中で作者が述べている。年表には同時期の作として「燈下管制果実の黒き種を吐く」が並んでいるので、今のように灯りが煌々とつく街にある楽器店とは様子が違うのだろう。部屋の隅に鳴らない楽器が固まって置かれている情景を想像するだけでも説得力のある句であるが、時代を語る夫妻の対話をもとに句の背景を知って読み返すとまた違う印象があり、貴重な資料であると思う。俳誌「青群」(第5号 2007/09/01発行)所載。(三宅やよい)




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