昨日も真夏日だったけど、今日はもっと暑くなるようだ。朝夕の涼しさが救い。(哲




2007ソスN9ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 1792007

 毎日が老人の日の飯こぼす

                           清水基吉

日「敬老の日」は、かつては「老人の日」と言った。この句は、その当時の作句だろう。その前は「としよりの日」だった。年月が経つうちに、だんだん慇懃無礼な呼び方に変わってきたわけだ。それはそのまま、国家の老人政策のありように対応している。いいじゃないか、「こどもの日」があるんだから「としよりの日」だって。でも、そのうちに「こどもの日」も改称されて、「こどもを大事にする日」「こどもを愛する日」なんてことになるかもしれない。最近の世情からすると、これもまんざら冗談とは言い切れまい。歳をとるといろいろな場面で、こんなはずではなかったがという失敗をやらかすようになる。飯をこぼすのもその一つで、私もときどき娘から叱られている。何故、こぼすのか。よくわからないけれど、幼児がこぼす原因とは根本的に違うようだという感じはある。幼児は経験不足からこぼすのであり、老人はたぶん経験に追いつかない身体機能の低下のせいで齟齬を来すのだ。おまけに、そのことを意識するから、かえって失敗が多くなる。無意識では満足に飯も口に運べなくなるのが、老人である。今日はそういう人たちを大事にするようにと、国家が定めた日だ。こんな祝日は、海外にはないそうだ。「毎日が老人の日」である作者にとっては、自嘲的にならざるを得ないのである。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


September 1692007

 秋風のかがやきを云ひ見舞客

                           角川源義

昨年の年末に、鴨居のレストランで食事をしているときに、突如気持が悪くなって倒れてしまいました。救急車で運ばれて、そのまま入院、検査となりました。しかし、検査の間も会社のことが気になってしかたがありません。それでもベッドの上で、二日三日と経つうちに、気に病んでいた仕事のことが徐々に、それほど重要なことではないように思われてきました。病院のゆったりとした時間の流れに、少しずつ体がなじんできてしまっているのです。たしかに病室の扉の内と外とには、別の種類の時間が流れているようです。掲句では、見舞い客が入院患者に、窓の外の輝きのことを話しています。とはいっても、見舞い客が、ことさらに外の世界を美しく話したわけではないのでしょう。ただ、たんたんと日常の瑣末な出来事を語って聞かせただけなのです。見舞い客が持ち込んだ秋風のにおいに輝きを感じたのは、別の時間の中で育まれた病人の研ぎ澄まされた感覚のせいだったのです。おそらくこの患者は、長期に入院しているのです。秋風のかがやきを、もっともまぶしく受け止められるのは、秋風に吹かれることのない人たちなのかもしれません。入院患者のまなざしがその輝きにむかおうとしている、そんな快復期のように、わたしには読み取れます。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 1592007

 身に入むや秒針進むとて跳る

                           菅 裸馬

に入む(身にしみる)、冷やか、などは秋季となっているが、人の情けが身にしみたり、冷やかな目で見られたり、となると一年中あることだ。確かに、しみる、冷やか、共に、語感からして、ほのぼのとあたたかくはないが。身に入む、については、もともと季節は関係なく、人を恋い、もののあわれを感じる言葉であったのが、源氏物語に「秋のあはれまさりゆく風の音、身にしみけるかな」という件もあり、次第に秋と結びついていったという。秋風が、人の世のあわれや、人生の寂寥感を感じさせる、ということのようだ。そんなしみじみとした感情を、秒針の動きと結びつけた掲句である。目には見えない時間、夢中で過ごせばあっという間、じっと待っていると足踏みをする。アナログ時計の秒針の動きは、確実に時が過ぎていることを実感させる。じっと見ていると、たしかに跳ねる、一秒一秒、やっと進んでいるかのように。そんな秒針の動きに、無常感を覚えつつ、ふと自分自身を重ねているのかもしれない。「俳句大歳時記」(1964・角川書店)所載。(今井肖子)




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