いったん治まった風雨がまた激しさを増してきた。電車は動くかなあ。8時現在。(哲




2007ソスN9ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0792007

 団栗を拾ひしあとも跼みゐる

                           石田郷子

べられるわけでもなく、団栗を拾うことにはさしたる現実的な意味はない。子供が遊びのために拾うか、大人がなんとなく拾うか。これを前者、子供の動作と受け取ると平凡な風景だろう。遊ぶために団栗を拾っている子供が、その姿勢のまま、虫の動きやら別の植物やら地上のもろもろの様子に気づいて見入っている。そこには子供の好奇心の典型があるだけで新鮮な詩情は感じられない。僕は後者、大人の句と取りたい。考えごとをしながら俯き加減に歩いていて、ふと、散らばっている団栗に目をやる。男は一瞬考えごとを中断して跼(かが)み込み、一個の団栗を手にする。手にした後、かがんだまま、またもとの思考の中に戻るのである。人間の動作の多くは合理性の中で行われるわけではない。日常的行動の端々は不合理や非条理に満ち満ちている。この句のようなひとつのカットが人間というものの複雑さを浮き彫りにする。『石田郷子作品集1』(2005)所収。(今井 聖)


September 0692007

 いま倒れれば鶏頭の中に顔

                           渡辺鮎太

っと固まって咲く鶏頭は、はかなげな秋の花と違いどこか不気味な面持ちをしている。もともとは熱帯アジア原産で、古く日本へ渡来したと辞書にあるから長い間観賞用の花として愛好されてきたのだろう。この花を気持ち悪く思う私にはどこが良くて花壇に植えられているのかさっぱりわからない。「いま倒れれば」といきなり始まる唐突な出だしは前のめりに倒れそうになった瞬間心をよぎった言葉なのか、それとも起こりそうもない状態を仮定しての言葉なのか。いずれにしても「ば」のあとに続く事柄が、「鶏頭の中に顔」で切れているヘンさ加減が鶏頭嫌いの私にとってはとても気になる。まっすぐ立っている鶏頭を顔で押し分けながら倒れこんでゆくシーンは柔らかそうなコスモスなどに倒れこむより現実的でちょっと毒を含んでいるように思える。鶏頭の中に顔があるシュールで大胆な構図も面白いが、実際に自分の顔が倒れこんでゆく場面を想像してみると、たくましい茎は直立したまま曲がりそうにないし、ばちばち顔に当たる葉も痛そうだ。鶏頭を詠むのに花から離れて詠むのではなく、自分の身体を倒してみる。しかも物が当たるのに一番避けたい顔を持ってきたことで句に生々しさが生まれ、鶏頭の異様な感触を際立たせたように思う。『十一月』(1998)所収。(三宅やよい)


September 0592007

 片耳は蟋蟀に貸す枕かな

                           三笑亭可楽(七代目)

蟀(こおろぎ)は別称「ちちろむし」とも「いとど」とも。古くは「きりぎりす」とも呼ばれ、秋に鳴く虫の総称でもあったという。今やコンクリートの箱に棲まう者にとって、蟋蟀の声は遠い闇のかなたのものとなってしまった。片耳を「蟋蟀に貸す」といった風流(?)などとっくに失せてしまった今日この頃である。部屋の隅か廊下で、あるいは小さな家の外で、蟋蟀がしきりに鳴いている。まだ寝つかれないまま、寝返りをうっては、聴くともなくその声に耳かたむけている風情である。「枕かな」がみごとであり、素人ばなれした下五ではないか。蚊も蝿も含めて、虫どもはかつて人と共存していた。「片耳はクーラーに貸す枕かな」と、おどけてみたくもなる昨今の残暑である。落語家の可楽は若い頃から俳句を作り、六百句ほどを『佳良句(からく)帳』として書きとめておいた。ところが、あるとき子規の『俳諧大要』を読んだことから、マッチで気前よく自分の句集を燃やしてしまったという。そのとき詠んだ句が「無駄花の居士に恥づべき糸瓜哉」。安藤鶴夫によれば、可楽は色黒で頬骨がとがった彫りの深い顔だけれども、愛敬がなく目が鋭かった。人間も芸も渋かった。そんな男がひとり寝て蟋蟀を聴いているのだ。昭和十九年に自宅の階段から落ちて三日後に亡くなった。行年五十七歳。六〇年代に聴いた八代目可楽の高座もやはり渋くて暗かったけれども、私はそこがたまらなく好きだった。安藤鶴夫『寄席紳士録』(1977)所載。(八木忠栄)




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