ひたひたと迫る虎の牙。ここまで来ればちゃんとした投手の揃った球団が優位。(哲




2007ソスN9ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 0392007

 颱風のしんがりにして竿竹屋

                           青木恵美子

近は夏でもやってくるが、「颱風(台風)」は秋の季語だ。ちょうどいま今年の9号が、はるか太平洋沖を西南西に向かって進んでいる。掲句は上陸した台風が思う存分荒れ狂って去っていった後の情景。ともに強かった風雨がぴたりと止んで、にわかに嘘のように日も射してきた。窓を開けて表を見ると、まだ木々からはぼたぼたと水滴が落ちており、あたりには吹き飛ばされた植木鉢やゴミ屑などが散乱している。やれやれ後片づけが大変だなと思っていると、どこからともなく竿竹屋の売り声が流れてきた。まるで颱風など来なかったかのような、のんびりとした売り声だ。ほっとさせられるようなその声に、思わずも作者は微笑したのであろうが、しかし身に付いた俳句的な物の見方が微笑を微笑のままでは終わらせなかった。すなわち、竿竹屋もまた颱風のウチと捉えたのである。竿竹屋は颱風で傷んだ竿竹などの買い替え需要を狙っているのだからして、やはりこれは颱風とは切り離せないと思ったのだ。「しんがり」が、実に良く作者の心持ちを表している。俳句的滑稽味に溢れ、しかも人情のありどころを的確に述べた秀句である。『玩具』(2007)所収。(清水哲男)


September 0292007

 縄とびの縄を抜ければ九月の町

                           大西泰世

年の夏の暑さは尋常ではありませんでした。昔は普通の家にクーラーなどなかったし、わたしが子供の頃もたしかに暑くはありました。しかしそのころの夏は、どこか、見当の付く暑さでした。今年の、39度とか40度とかは、どう考えても日本の暑さとは思えません。そんな記録尽くめの夏も、時が経てば当然のことながら過ぎ去ってゆきます。掲句、こんなふうに出会う9月もよいかなと、思います。遠くに、縄跳びをしている子供たちの姿が見えます。夕方でしょうか。縄を持つ子供が両側に立って、大きく腕をまわしています。一人、一人と順番に、その縄に飛び込んでは、向こう側へ抜けてゆく、その先はもう9月をしっかりと受け止めた町なのです。縄跳びの縄が、新しい季節の入り口のように感じられます。飛び上がる空の高さと、9月という時の推移の、両方を感じさせる気持ちのよい句です。陽が沈むのが日に日に早くなり、あたりも暗くなり始めました。今日の遊びもおしまいと、誰かが言い、縄跳びの縄は小さく丸められます。帰ってゆく子供たちのむかう家は、もちろんあたらしい季節の、中にあるのです。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


September 0192007

 焼跡にまた住みふりて震災忌

                           中村辰之丞

正十二年九月一日の未明、東京にはかなりの風雨があったという。そして夜が明けて雨はあがり、秋めく風がふく正午近く、直下型大地震が関東地方を襲ったのだった。その風が、東京だけで十万人を越える死者を数える悲劇を生む要因となった大火災に拍車をかけることになるとは、思いもよらなかったにちがいない。作者が歌舞伎役者であることを思えば、代々生まれも育ちも東京だろう。焼跡に、とあるので、旧家は焼失したのかもしれない。年に一度巡り来る震災忌、その惨状が昨日のことのようによみがえってくる。そして、失われた風景や人々を思う時、流れた月日の果てに今ここに自分が生きているということを複雑な思いでかみしめているのだ。また、の一語が、作者の感慨を伝え、さまざまな感情や年月をふくらませる。その後、再び東京が焼け野原になる日が来ることもまた、思いもよらなかったであろう。関東大震災から八十年以上、どんどん深くなる新しい地下鉄、加速する硝子の高層ビルの建設ラッシュの東京で、今日一日はあちこちで防災訓練が行われる。ずっと訓練だけですめば幸いなのだが。「俳句歳時記」(1957・角川書店発行)所載。(今井肖子)




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