皆既月食が明後28日、6年半ぶりに全国で見られるそうだ。忘れないようメモ。(哲




2007ソスN8ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2682007

 くちばしがふと欲しくなり秋日和

                           皆吉 司

や多くの家が犬や猫を飼うペットブームですが、私が子供の頃には、家で飼っている生き物といえば、せいぜい金魚や小鳥でした。もちろん、それほどに心を通わせることはなく、生活する場の風景のようにして、そちらはそちらで勝手に生きているように思っていました。それでも、からの餌箱をつつくすがたに驚き、あわてて餌を買いに行ったことがありました。その必死な動作に、道すがら、申し訳なく感じたことを憶えています。くちばしを持つ動物はいろいろありますが、掲句を読んで思ったのは、当時飼っていた小鳥のことでした。止まり木の上で、薄いまぶたをじっと閉じている姿を見るのが好きでした。あるいは、首を、あごの中に差し込むようにして折り曲げる小さな姿にも、惹かれていました。人という動物は、言うまでもなくやわらかい口を持っています。どんな言葉も発することができ、どのような食物も取り込むことのできる、便利な形をしています。作者はなぜか、そんな口に違和感を持ったようです。ふと、堅い部位を顔の中央に突出させたくなったのでしょうか。しかしこの願望は、それほどに深刻なものではなく、穏やかな秋日和に、のんびりと見つめていた小鳥の姿から、思いついただけなのかもしれません。それでも、人が鋭いくちばしを持った姿は、ひどく悲しげに見えるのではないかと、思うのですが。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)


August 2582007

 取り入るゝ傘一と抱き秋の蝶

                           亀山其園

の句は、句集『油團』から引いた。何となく本棚を見ていて、この油團(ゆとん)に目がとまったのだった。そういえば昔我が家にもあった、和紙を貼り合わせて油を塗ったてらてらとした固い夏の敷物である。素十の前書きに「其園(きその)さんは女で、早く父母に死に別れ、傘張りの家業を継いで弟妹の教育をなし遂げた感心な人です。」とある。その後に、戦後しばらくは傘屋も繁盛したが、洋傘に押され廃業、お茶屋を始め、俳句半分、商売半分で暮らしている、と続いている。店先でのんびりお茶を飲んで、買わずに帰ってゆく客を気にもとめない主人を見かねて、素十が書いた「茶を一斤買へば炉に半日ゐてもよろし 閑店主人」という直筆の貼り紙の写真が見開きにあり、たくましくもおおらかな其園という女性の人柄が偲ばれる。掲句、秋になると、天敵の蜂が減り、蝶は増えてくるのだという。萩や秋桜の揺れる中、秋風に舞う蝶は、空の青さに映えて美しく、秋思の心に響き合う憐れがある。秋晴れの一日、きれいに乾いた傘を抱えたまま足を止めている其園と、そこに来ている蝶の、小さな時間がそこにある。『油團』(1972)所収。(今井肖子)


August 2482007

 みづうみの水のつめたき花野かな

                           日野草城

体形で何々かなに掛ける。虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」もある。つめたいのは花野ではなくて水。日が当っているのは枯野ではなくて遠山である。最近では岸本尚毅の「手をつけて海のつめたき桜かな」も同様。こういう用法と文体はいつの時代に誰が始めたのだろう。何だって最初はオリジナルだったのだ。起源を知りたいとは思うがわかっても実作にはつながらない。自分のオリジナルを作りたい実作者にとっては用法の起源はあまり意味を持たない。古い時代の用法をたずねて今に引いてくるのは昔からよくあるオリジナルに見せかける常道である。新しい服をデザインする発想に行き詰ったら、そのとき古着のデザインに習えばいいと思うのだが。この句、水と花野の質感の対比、みづうみと花野の大きさの対比。二つの要素の対比、対照によって効果を出している。草城のモダニズムは自在にフィクションを構成してみせたが、誓子や草田男のように、文体そのもののオリジナルに向ける眼差しは無かった。そこが、草城作品の「俗」に寄り添うところ。そこに魅力を感じる人も多い。講談社『日本大歳時記』(1983)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます