また暑さがぶり返してくる気配。いい加減にしてほしい。降参、もう若くない。(哲




2007ソスN8ソスソス24ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2482007

 みづうみの水のつめたき花野かな

                           日野草城

体形で何々かなに掛ける。虚子の「遠山に日の当りたる枯野かな」もある。つめたいのは花野ではなくて水。日が当っているのは枯野ではなくて遠山である。最近では岸本尚毅の「手をつけて海のつめたき桜かな」も同様。こういう用法と文体はいつの時代に誰が始めたのだろう。何だって最初はオリジナルだったのだ。起源を知りたいとは思うがわかっても実作にはつながらない。自分のオリジナルを作りたい実作者にとっては用法の起源はあまり意味を持たない。古い時代の用法をたずねて今に引いてくるのは昔からよくあるオリジナルに見せかける常道である。新しい服をデザインする発想に行き詰ったら、そのとき古着のデザインに習えばいいと思うのだが。この句、水と花野の質感の対比、みづうみと花野の大きさの対比。二つの要素の対比、対照によって効果を出している。草城のモダニズムは自在にフィクションを構成してみせたが、誓子や草田男のように、文体そのもののオリジナルに向ける眼差しは無かった。そこが、草城作品の「俗」に寄り添うところ。そこに魅力を感じる人も多い。講談社『日本大歳時記』(1983)所載。(今井 聖)


August 2382007

 よき木にはよき風通る地蔵盆

                           山本洋子

蔵盆は陰暦7月23日24日の地蔵菩薩の縁日に行う会式。子供が中心になって地蔵様を祭る慣わしと辞書にはある。地蔵は子供を守る神様とよく言われるが、六道輪廻それぞれの世界での苦難を救ってくださる神様としてよく墓地の入り口に六体ならんでいる。弱い立場の人を最優先に救ってくださるそうだから、子供達にとってスーパーマンのような存在なのだろう。道祖神のように町外れに結界の守り神として建てられることも多いようだ。インターネットであれやこれやと覗いてみたところ地蔵盆が関西で盛んなのは、室町時代に京都中心に地蔵の一大ブームがあり、地蔵盆が根付いたとか。神戸に住んでいた私は経験したことがないが、京都では今も町内の子ども会などを中心に地蔵様に花や餅を供え、ゲームなどを楽しんでいる地域が多いようだ。朝から地蔵の前に賑やかに集まる子供達。町外れの地蔵様の祠には大きな樟が木陰を作り、さわさわと秋めいた風に葉を揺らしている。夜になれば赤い提灯に灯が入り、綿菓子やヨーヨーを携えて集まってきた子供達を見守るように大きな月も顔を出す。夏休みも終わりの一日、「よき木」の下のお地蔵様へ集まる子供達の様子を楽しく想像させる句だ。『京の季語・秋』(1998)所載。(三宅やよい)


August 2282007

 ちれちれと鳴きつつ線香花火散る

                           三井葉子

の夜は何といっても花火。今年も各地の夜空に華々しくドッカン、ドッカンひらいた打ち揚げ花火に、多くの観客が酔いしれたことでしょう。それもすばらしいけれども、数人が闇の底にしゃがんでひっそりと、あるいはガヤガヤと楽しむ線香花火にも、たまらない夏の風情が感じられる。「ちれちれ」は線香花火のはぜる音だが、「散れ散れ」の意味合いが重ねられていることは言うまでもあるまい。「ちれちれ」は音として言い得て妙。「散れ」に始まって「散る」に終ることを、葉子は意図していると思われる。そこには「いつまでも散らないで」というはかない願いがこめられている。さらに「鳴きつつ」は「泣きつつ」でもあろうから、いずれにせよこの句の風情には、どこかしらうら寂しさが色濃くたちこめている。時季的には夏の盛りというよりは、もうそろそろ晩夏かなあ。花火に興じているのが子どもたちだとすれば、夏休みも残り少なくなってきている時期である。この句にじんわりとにじむ寂しさは拭いきれないけれど、どこかしらほのぼのとした夏の残り火がまだ辛うじて生きているような、そんな気配も感じとれるところが救いとなっている。あれも花火・これも花火である。葉子は関西在住の詩人だが、はんなりとした艶を秘めた句境を楽しんでいるようだ。「ひとり焚くねずみ花火よ吾(あ)も舞はむ」「水恋し胸に螢を飼ひたれば」などの句もならぶ。『桃』(2005)所収。(八木忠栄)




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