阪神三連勝。テレビ中継はなかったしネット情報だけでは物足りないしの乾杯。(哲




2007ソスN8ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0582007

 君だつたのか逆光の夏帽子

                           金澤明子

帽子といえば、7月25日にすでに八木忠栄さんが「夏帽子頭の中に崖ありて」(車谷長吉)という句を取り上げていました。同じ季語を扱っていますが、本日の句はだいぶ趣が異なります。句の意味は明瞭です。夏の道を歩いていると、向こうから大きな帽子を被った人が近づいてきます。歩き方にどこか見覚えがあるようだと思いながら、徐々にその距離を狭めてゆきます。だいぶ近くなって、ちょうど帽子のつばに太陽がさえぎられ、下にある顔がやっと見分けられて、ああやっぱり君だったのかと挨拶をしているのです。逆光のせいで、まっ黒に見えていた人の姿が、本来の人の色を取戻してゆく過程が、見事に詠われています。「君だったのか」の「のか」が、話し言葉の息遣いを生き生きと伝えています。「君」がだれを指しているのかは、読み手が好きなように想像すればよいことです。大切な異性であるかもしれませんが、わたしはむしろ、気心の知れた友人として読みたいと思います。「君だったのか」のあとは、当然、「ちょっと一杯行きますか」ということになるのでしょう。「暑いねー」と言いながら、二人連れ立ってそこからの道を、夏の日ざしを背に受けながら同じ方向へ向ってゆくのです。もちろん帽子の下の頭の中には、すでに冷えたビールが思い浮かべられています。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0482007

 宵の町雨となりたる泥鰌鍋

                           深見けん二

の上ではこの夏最後の土曜日だが、暑さはこれからが本番だろう。この句は「東京俳句歳時記」(棚山波郎)より。夏ならば、朝顔市、三社祭など馴染みの深いものから、金魚のせり、すもも祭りなど(私は)初めて知ったものまで、ひとつひとつ丹念に取材された東京の四季が、俳句と共に描かれている。泥鰌を食べる習慣は、東京独自のものというわけでもないらしいが、西の方では概ね敬遠されるようである。一度だけ行ったことのある泥鰌屋は、川沿いの小さい店だった。思い返すと、その濃いめの味付け、鍋が見えなくなるほどにかけ放題の青ネギ、確かに鍋とはいえ、団扇片手に汗をかきかき食べる夏の食べ物である。食べ物を詠む時、そのものをいかにもそれらしく美味しそうに、というのもひとつであろうが、この句は、泥鰌鍋でほてった頬に心地良い川風を思い出させる。川に降り込むかすかな雨音、町を包む夜気と雨の運んでくる涼しさが、夏の宵ならではと思う。泥鰌鍋の項には他に、秋元不死男の〈酒好きに酒の佳句なし泥鰌鍋〉など。「東京俳句歳時記」(1998)所載。(今井肖子)


August 0382007

 焼酎や頭の中黒き蟻這へり

                           岸風三楼

れは二日酔いの句か、アルコール依存症の症状から来る幻を描いた句のように思える。まあ二日酔いならば「焼酎や」とは置かないと思うので後者だと思う。幻影と俳句との関係は古くて新しい。幻影を虚子は主観と言った。主観はいけません、見えたものをそのまま写生しなさいと。思いはすべて主観、すなわち幻影であった。だから反花鳥諷詠派の高屋窓秋は「頭の中で白い夏野となつてゐる」を書いて、見えたものじゃなくても頭で思い描いた白い夏野でもいいんだよと説いてみせた。窓秋の白い夏野も、この句の黒き蟻も幻の景だが、後者はこの景がアルコールによって喚起されたという「正直」な告白をしている。実際には「見えない」景を描くときは、なぜ見えない景が見えたのかの説明が要ると思うのは、「写生派」の倫理観であろう。西東三鬼の「頭悪き日やげんげ田に牛暴れ」はどうだ。この牛も、頭痛などで頭の具合が悪い日の幻影に思える。イメージがどんな原因によって喚起されようと、表現された結果だけが問題だと思うが、そうすると薬物を飲んで作ってもいいのかという最近の論議になる。これも文学、芸術の世界での古くて新しい課題。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




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