甲子園大会。ほとんどが野球名門校で新味なし。「しょうがない」と言うべきか。(哲




2007ソスN8ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0382007

 焼酎や頭の中黒き蟻這へり

                           岸風三楼

れは二日酔いの句か、アルコール依存症の症状から来る幻を描いた句のように思える。まあ二日酔いならば「焼酎や」とは置かないと思うので後者だと思う。幻影と俳句との関係は古くて新しい。幻影を虚子は主観と言った。主観はいけません、見えたものをそのまま写生しなさいと。思いはすべて主観、すなわち幻影であった。だから反花鳥諷詠派の高屋窓秋は「頭の中で白い夏野となつてゐる」を書いて、見えたものじゃなくても頭で思い描いた白い夏野でもいいんだよと説いてみせた。窓秋の白い夏野も、この句の黒き蟻も幻の景だが、後者はこの景がアルコールによって喚起されたという「正直」な告白をしている。実際には「見えない」景を描くときは、なぜ見えない景が見えたのかの説明が要ると思うのは、「写生派」の倫理観であろう。西東三鬼の「頭悪き日やげんげ田に牛暴れ」はどうだ。この牛も、頭痛などで頭の具合が悪い日の幻影に思える。イメージがどんな原因によって喚起されようと、表現された結果だけが問題だと思うが、そうすると薬物を飲んで作ってもいいのかという最近の論議になる。これも文学、芸術の世界での古くて新しい課題。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


August 0282007

 夕顔や横丁の名も花の名も

                           岡部松助

本邦雄の『國語精粹記』の「歌枕考現學」には各地の美しい地名がずらりと並べられている。京都は「一千年の文化がみづからに施した象眼、螺鈿(らでん)、どの一部分をクローズアップしても、それは固有名詞花園であつた」という説明とともに燈籠町、月見町、紅葉町、佛具屋町、悪王子町、と言った下京の町名が羅列されており、その中に夕顔町の名も見える。驚くことに六条西には天使突抜(てんしつきぬけ)と呼ぶ地域もあるらしい。散歩や観光で訪れた見知らぬ場所でたまたまこのような名前を目にとめたら、さぞ旅心を刺激されることだろう。この句ではあてどなく歩いている最中にふっと目を留めた町名と門扉の近くに揺れる真っ白な花の名が一致した偶然がさりげなく詠まれている。陋屋に美しい女を見出す『源氏物語』から始まって「夕顔」という言葉は様々な連想を抱えこんでいる。「横丁の名も」「花の名も」と後に続いてゆく「も」にそのあたりの事情を含ませているのだろう。しかし、この句は歩いているときに出会った偶然をそのまま句に書きとめている何気なさが魅力。それが「夕顔」の美しさとともに気さくで身近なこの花の印象を引き立てているように思う。俳誌「や」(第43号・2007年夏号)所載。(三宅やよい)


August 0182007

 飲馴れし井水の恋し夏の旅

                           幸田露伴

にも当然のようにうなずける句意である。「着馴れし」もの、「食馴れし」もの、「住馴れし」もの――それらは、私たちによく馴染んでいて恋しいものである。いや、時として馴れた衣・食・住に飽きてしまったり嫌悪を覚えたりすることはあろう。しかし、それも一時のことである。まして、それが生きるうえで最も不可欠な水となれば、「飲馴れ」た水にまさるものはない。どこにもある水道水やペットボトルの水の類ではない。固有の井水(井戸水)である。かつては、家それぞれが代々飲みつづけてきた井戸水をもっていた。井戸水とは、それを飲みつづける者の血でもあった。必ずしも上等の水である必要はない。鉄気(かなけ)の多い水、塩分の多い水などであっても、それが「飲馴れし井水」であった。自分が飲んで育った水である。暑い夏の旅先で馴れない水を何日も飲みつづけている身には、わが家の井戸水が恋しくなるのは当然のこと。夏なお冷たい井戸水である。この場合の「井水」は「水」だけでなく、生まれ育った「土地」や「家族」のことをも意味していると思われる。旅先で、井戸水や家族や土地がそろそろ恋しくなっているのだ。うまい/まずいは別として、私たちにとって「恋しい水」って何だろう? 百名水なんかじゃなくてもよい。あのフーテンの寅さんも「とらや」という井水=家族=土地への恋しさがたまって、柴又へふらりと帰ってきたのではなかったか。『露伴全集32巻』(1957)所収。(八木忠栄)




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