阿久悠さんが亡くなった。「最近の歌詞は会議で作るんだよなあ」と、30年前に。(哲




2007ソスN8ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0282007

 夕顔や横丁の名も花の名も

                           岡部松助

本邦雄の『國語精粹記』の「歌枕考現學」には各地の美しい地名がずらりと並べられている。京都は「一千年の文化がみづからに施した象眼、螺鈿(らでん)、どの一部分をクローズアップしても、それは固有名詞花園であつた」という説明とともに燈籠町、月見町、紅葉町、佛具屋町、悪王子町、と言った下京の町名が羅列されており、その中に夕顔町の名も見える。驚くことに六条西には天使突抜(てんしつきぬけ)と呼ぶ地域もあるらしい。散歩や観光で訪れた見知らぬ場所でたまたまこのような名前を目にとめたら、さぞ旅心を刺激されることだろう。この句ではあてどなく歩いている最中にふっと目を留めた町名と門扉の近くに揺れる真っ白な花の名が一致した偶然がさりげなく詠まれている。陋屋に美しい女を見出す『源氏物語』から始まって「夕顔」という言葉は様々な連想を抱えこんでいる。「横丁の名も」「花の名も」と後に続いてゆく「も」にそのあたりの事情を含ませているのだろう。しかし、この句は歩いているときに出会った偶然をそのまま句に書きとめている何気なさが魅力。それが「夕顔」の美しさとともに気さくで身近なこの花の印象を引き立てているように思う。俳誌「や」(第43号・2007年夏号)所載。(三宅やよい)


August 0182007

 飲馴れし井水の恋し夏の旅

                           幸田露伴

にも当然のようにうなずける句意である。「着馴れし」もの、「食馴れし」もの、「住馴れし」もの――それらは、私たちによく馴染んでいて恋しいものである。いや、時として馴れた衣・食・住に飽きてしまったり嫌悪を覚えたりすることはあろう。しかし、それも一時のことである。まして、それが生きるうえで最も不可欠な水となれば、「飲馴れ」た水にまさるものはない。どこにもある水道水やペットボトルの水の類ではない。固有の井水(井戸水)である。かつては、家それぞれが代々飲みつづけてきた井戸水をもっていた。井戸水とは、それを飲みつづける者の血でもあった。必ずしも上等の水である必要はない。鉄気(かなけ)の多い水、塩分の多い水などであっても、それが「飲馴れし井水」であった。自分が飲んで育った水である。暑い夏の旅先で馴れない水を何日も飲みつづけている身には、わが家の井戸水が恋しくなるのは当然のこと。夏なお冷たい井戸水である。この場合の「井水」は「水」だけでなく、生まれ育った「土地」や「家族」のことをも意味していると思われる。旅先で、井戸水や家族や土地がそろそろ恋しくなっているのだ。うまい/まずいは別として、私たちにとって「恋しい水」って何だろう? 百名水なんかじゃなくてもよい。あのフーテンの寅さんも「とらや」という井水=家族=土地への恋しさがたまって、柴又へふらりと帰ってきたのではなかったか。『露伴全集32巻』(1957)所収。(八木忠栄)


July 3172007

 空缶にめんこが貯まり夏休み

                           山崎祐子

月20日あたりから始まる夏休みもそろそろ序盤戦終了。身体が夏休みになじんでくる頃だ。めんこ、と聞いて懐かしく思うのはほとんど男性だろう。わたしには弟がいたので、めんこ遊びのおおよそは知っているが、実際に触ったことはないように思う。長方形や丸形の厚紙でできた札を地面に打ちつけ、相手の札を裏返す。裏返ったら自分の物にすることができるので、茶筒などに入れ、まるでガンマンのように持ち歩いていた。気に入りの札をなにやら大切そうに机の端から端まで並べている弟を見て、つくづく男の子には男の子の遊びがあるものなのだ、などと思ったものだ。おそらく掲句の母親もそう感じたのではないだろうか。自分の知らない遊びに夢中になっているわが子に、成長した少年の姿を見つけ誇らしく、また、ずっと遠くにあると思っていた親離れが案外近づいてきていることを知る。掲句の少年は、9月になって新学期が始まってもまだまだ気分は夏休みのままらしく〈筆箱に芋虫を入れ登校す〉とあり、母親にひとしきりの悲鳴を与えたようだ。とはいえ、いまやどこを見ても小型のゲーム機を手にしている子供ばかり。現在めんこ販売の主流は大人のコレクションが中心となっているという。『点晴』(2005)所収。(土肥あき子)




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