神野紗希の句

July 2972007

 ひきだしに海を映さぬサングラス

                           神野紗希

ったりとした日常の世界から、容易に創作の場へ飛び移ることの出来る言葉があります。「ひきだし」も、そのような便利な言葉のひとつです。おそらく、そこだけの閉じられた世界というのが、作者の想像を刺激し、ミニチュアの空間を作り上げる楽しみをもたらすからなのです。ただ、そのような刺激はだれもが同じように受けるものです。「ひきだし」を際立たせて描くためには、それなりに独自の視点を示さなければなりません。掲句に惹かれたのは、おそらくひきだしの中に込められた夏の海のせいです。思わず取っ手に手をかけて、こちらへ大きく引き出してみたくなります。「映さぬ」と、否定形ではありますが、言葉というものは不思議なもので、「海を映さぬ」と書かれているのに、頭の中には、はるかに波打つ海を広げてしまうのです。同様にその海は、サングラスにもくっきりと映り、細かな砂までもが付いているのです。夏も終りの頃に詠まれた句でしょうか。すでに水を拭い去ったサングラスが、無造作にひきだしに放り込まれています。その夏、サングラスがまぶしく映したものは、もちろん海だけではなかったのでしょう。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


June 0762011

 石棺に窓なかりけり蟇

                           神野紗希

になると毎年律儀にやってくる生きものに、庭の蟇と、玄関の守宮がいる。蟇は数年前からひと回り小さい新顔が加わった。門から続く踏み石に気に入りがあるらしく、それぞれ真ん中に堂々と居座っているため、人間の方が遠慮して踏み石をよけて行き来する。掲句では、石棺のなかの闇と、そこに詰められた空気の湿り気をじゅうぶんに伝えたのち、地上に八方睨みの態で仕えるがごとき蟇の姿が、哀愁を帯びた滑稽さで浮かびあがる。それは、わが庭の踏み石までもまるで石棺の蓋のように思わせ、頑として動かぬ蟇が奇妙な把手に見えてくる。地中からひしひしと這いのぼる夏を、大きな蟇が「まだまだ」、小さな蟇も「まだまだ」と息を合わせて押しとどめているようだ。このところ「石棺」「水棺」といえば、原子炉を封じ込める建造物として頻繁に登場する。どこか荒くれた神に鎮まっていただくようなその語感に、うさん臭さを感じるのはわたしだけではないだろう。古今東西、棺は常に破られ、出てくるのは不死身の化け物なのである。「俳句」(2011年6月号)所載。(土肥あき子)


October 03102011

 薄く薄く梨の皮剥くあきらめよ

                           神野紗希

物の皮を剥くのは得意なほうだと思う。小学生のころに、さんざん台所仕事をさせられたせいもしれない。林檎などは、中途で一度も途切らすことなく皮を垂らして剥くことができる。と、そんなに自慢するほどのことでもないけれど、これが梨剥きとなるとけっこう難しい。林檎に比べると梨は肌理が粗いので、すぐ果肉に刃が食い込みがちだからだ。どうしても薄くなめらかとはいかずに、凹凸の部分ができてしまう。作者はべつに一本の皮を垂らそうとしているわけではなさそうだが、それでも「薄く薄く」剥こうと心がけている。なかなかに集中力を要する作業だ。何のためかと言えば、自分に何かを「あきらめよ」と言い聞かせるためである。自分自身に決断をうながすための、いわば手続きのような作業として可能な限り薄く薄く剥こうとしている。しかし剥きながら、なお決断することをためらっている様子もうかがえる。なんという健気な逡巡だろうか。下五にずばり「あきらめよ」と配した句柄は新鮮だが、内実は古風な抒情句と言えるだろう。好きだな、こういうの。「ユリイカ」(2011年10月号)所載。(清水哲男)


May 0852012

 銀河系語る泉にたとえつつ

                           神野紗希

人的な好みもあろうが、専門分野を簡潔に説明でき、明快な比喩を扱える人に出会うと、憧れと尊敬でぽーっとなってしまう。広辞苑で「銀河系」をひくと「太陽を含む二千億個の恒星とガスや塵などの星間物質から成る直径約十五万光年の天体」とあり、その数字に圧倒される。やさしく分りやすい信条の新明解国語辞典でも広辞苑の説明に追加して「肉眼で見える天体の大部分がこれに含まれる」とあって、そこからは「だからもうそこらじゅう全部銀河系だってことなんですっ」という開き直ったような困惑ぶりが見てとれる。数字が大きければ大きいほど、現実から遠ざかる。人間が瞬時に把握できる数は7という説があるが、それをはるかに超えた千億個などという途方もないものは数という親しみやすい存在から逸脱している。掲句のこんこんと湧く泉に例えられたことで、堅苦しく数字がひしめいていた銀河系が、途端に瑞々しい空間へと変貌し、たっぷりとした宇宙に漂う心地となる。〈起立礼着席青葉風過ぎた〉〈寂しいと言い私を蔦にせよ〉『光まみれの蜂』(2012)所収。(土肥あき子)


August 2182012

 右左左右右秋の鳩

                           神野紗希

左左右右、さてなんでしょう。最初足取りを描いたが、それではまるで千鳥足。はたしてこれは首の動きなのだと思い至り、大いに合点した。頭部を小刻みにきょときょとさせる鳩の特徴的な様子を描いているのだ。平和の象徴と呼ばれ、公園などで餌をやる人がいる一方、のべつ動かす首が苦手だという人も多い。なかには他の鳥は許せるが、鳩だけは許せない、羽の色彩や鳴き声まで腹立たしいという強烈なむきもあるが、嫌悪の理由はおしなべて勝手なものである。鳩嫌いの女の子の四コマ漫画『はとがいる』でも、恐怖や目障りな存在をハト的なものとして描いて好評だが、ここにもこの鳥が持つ平和や幸福と相反するイメージへの共感がある。掲句を見て、秋の爽やかさと取るか、残暑の暑苦しさと取るかで、鳩好き、鳩嫌いに分けることができるだろう。ともあれ右と左、これだけで鳩の姿を眼前に映し出すのだから俳句は面白い。実際に爽やかを感じるまで、秋の助走はまだまだ長い。『光まみれの蜂』(2012)所収。(土肥あき子)


December 20122012

 どこへ隠そうクリスマスプレゼント

                           神野紗希

レンダーを見ると今年のクリスマスは火曜日。今日明日と小さな子供たちが学校や幼稚園へ行っている間にクリスマスプレゼントを買いに行く方も多いかもしれない。会話のはしばしに欲しいものを探り当ててお目当てのものを捜し歩く一日。さあ、うちに帰ってからが大騒ぎ。天袋の中、洋服ダンスの奥?どこへ隠しても子供に見破られそうな気がする。大きなものなら車のトランクに入れたままにしておくほうがいいかもしれない。そのプレゼントを抜き足、差し足でそっと枕元に置くのもドキドキなのだけど、考えてみればとても楽しいイベントだった。「どこへ隠そう」の後に続く言葉は何をおいても「クリスマスプレゼント」以外に考えられない。翌朝子供たちが目覚めてあげる大きな歓声、プレゼントを見せに駆けて来る足音。クリスマスプレゼントにまつわる懐かしい思い出がどっと押し寄せてくる一句だと思う。『新撰21』(2009)所収。(三宅やよい)




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