負けない阪神。おやおや、ひょっとするとひょっとし始めたのかもしれないぞ。(哲




2007ソスN7ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2872007

 漂へるもののかたちや夜光虫

                           岡田耿陽

光虫、虫の字を持ちながら植物性プランクトンで、海水の温度が三十度前後になると発生するといい夏季に分類されている。昼間海岸沿いに目にする赤潮には、夜間青白く光る夜光虫によるものもあると今回知った。漁師町に生まれ育った耿陽(こうよう)には、海に因んだ句が多く見られるのだが、特に夜光虫については、「耿陽によって明るみに出た季題」とも言われているようだ。そんな作者の、夜光虫の徹底的な写生句のその先にこの句があった。昭和四年の作である。青白い夜光虫の群を水中から見ていると、宇宙空間にいるようだという。まさに、ふれたものの輪郭を光る夜光虫。陸でいえば蛍もそうだが、真闇に光る生きものは、それを目の当たりにしたものに魂や生命を思わせる。作者は、幾たびも夜光虫に出会い、その幻想的な光を見るうち、概念をこえた造化の不思議や無常をも感じたのかもしれない。もののかたちもののかたち、とくり返しつぶやいていると、自分をとりかこんでいるあらゆるものの存在が、ゆらゆらと遠ざかってゆくような心持ちになる。『句生涯』(1981)所収。(今井肖子)


July 2772007

 一瀑を秘めて林相よかりけり

                           京極杞陽

えない滝を詠んでいる。目の前に林が広がる。滝音でもするのか、それとも滝はおそらくあると作者は推測しているのか。五感を通して直接感受したことや、感覚を通しての推測ならば、この「秘めて」は「写生」から逸脱しないが、その林の中に滝が存在するという事実を知識として持っているということだと理屈の勝った句になる。この「秘めて」は前二者のどちらかにとりたい。林相(りんそう)とは聞きなれない言葉だ。あるいは専門用語か。それにしても林の美しさを言うのに実に的確な言葉ではある。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)笛を吹く男の姿に見惚れる感覚と林の姿に美しさを感じる感覚はどこか似ている。三十数年前大学受験の折に農学部林学科というのを受けたことがある。獣医学科だの農芸化学科だのの農学部の他の学科よりは競争率が低かったのと、「林は国策の根幹である」だったか「林は地球の縮図である」だったかの言葉をどこかで見て興味を持っていたせいだ。そのときのこの学科は競争率1.8倍だったが、見事に落ちてしまった。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 2672007

 手花火の君は地球の女なり

                           高山れおな

花火をする様子は俳句では詠み尽された情景のように思えるが、この句は「地球」という言葉を加えたことで、思いがけない像を描き出している。私たちは地球に生きている動物の一員でしかないけれど、人間中心に生活しているとそんな事実はどこかに吹き飛んでしまう。あたりまえに思えることをわざわざ定義しなおすことで、目の前の光景は宇宙的規模に拡大される。ボクの前で膝をかがめ、ぱちぱち花火を散らしている彼女の姿が丸い地球の表面にへばりついて花火をしているマンガ的にデフォルメされた図として頭に浮かんでくる。それと同時にキミとボクの間柄もにわかに遠のいて親しい彼女が「地球の女」という見知らぬ生物になってしまったようなとまどいも感じられるのだ。経験に即した実感を持って目の前の対象を写しとることに力点を置いた近代俳句以前の俳諧は言葉の滑稽や諧謔を楽しんでいた。掲句では小さく視界がまとまりがちな手花火の景にレベルの違う言葉の「ずれ」を持ち込むことで、日常の次元をゆがませ、ナンセンスなおかしみを感じさせている。『ウルトラ』(1998)所収。(三宅やよい)




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