負けないタイガース。おやおや、ひょっとするとひょっとするかもしれないぞ。(哲




2007ソスN7ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2772007

 一瀑を秘めて林相よかりけり

                           京極杞陽

えない滝を詠んでいる。目の前に林が広がる。滝音でもするのか、それとも滝はおそらくあると作者は推測しているのか。五感を通して直接感受したことや、感覚を通しての推測ならば、この「秘めて」は「写生」から逸脱しないが、その林の中に滝が存在するという事実を知識として持っているということだと理屈の勝った句になる。この「秘めて」は前二者のどちらかにとりたい。林相(りんそう)とは聞きなれない言葉だ。あるいは専門用語か。それにしても林の美しさを言うのに実に的確な言葉ではある。「祭笛吹くとき男佳かりける」(橋本多佳子)笛を吹く男の姿に見惚れる感覚と林の姿に美しさを感じる感覚はどこか似ている。三十数年前大学受験の折に農学部林学科というのを受けたことがある。獣医学科だの農芸化学科だのの農学部の他の学科よりは競争率が低かったのと、「林は国策の根幹である」だったか「林は地球の縮図である」だったかの言葉をどこかで見て興味を持っていたせいだ。そのときのこの学科は競争率1.8倍だったが、見事に落ちてしまった。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 2672007

 手花火の君は地球の女なり

                           高山れおな

花火をする様子は俳句では詠み尽された情景のように思えるが、この句は「地球」という言葉を加えたことで、思いがけない像を描き出している。私たちは地球に生きている動物の一員でしかないけれど、人間中心に生活しているとそんな事実はどこかに吹き飛んでしまう。あたりまえに思えることをわざわざ定義しなおすことで、目の前の光景は宇宙的規模に拡大される。ボクの前で膝をかがめ、ぱちぱち花火を散らしている彼女の姿が丸い地球の表面にへばりついて花火をしているマンガ的にデフォルメされた図として頭に浮かんでくる。それと同時にキミとボクの間柄もにわかに遠のいて親しい彼女が「地球の女」という見知らぬ生物になってしまったようなとまどいも感じられるのだ。経験に即した実感を持って目の前の対象を写しとることに力点を置いた近代俳句以前の俳諧は言葉の滑稽や諧謔を楽しんでいた。掲句では小さく視界がまとまりがちな手花火の景にレベルの違う言葉の「ずれ」を持ち込むことで、日常の次元をゆがませ、ナンセンスなおかしみを感じさせている。『ウルトラ』(1998)所収。(三宅やよい)


July 2572007

 夏帽子頭の中に崖ありて

                           車谷長吉

帽子というのは麦わら帽、パナマ帽などが一般的とされるけれど、ここでは妙にハイカラな帽子でなければ特にこだわらないでいいだろう。夏帽子そのものは何であれ、作者は帽子に隠された「頭の中」をモンダイにしている。「頭の中」に「崖」があるというのだから穏かではない。長吉の小説の世界にも似てすさまじい。断崖、切り岸が頭の中にあるという状態は、それがいかなる「崖」であれ、健やかなことでない。頭の中に切り立つひんやりとした崖には、怪しい虫どもがひそんでいるかもしれないし、たとえば蛇が垂れさがったり、這いずりまわったりしているかもしれない。今にも崩れそうな状態なのかもしれない。とにかく、そんな「崖」が頭蓋の中、あるいは想念の中に切り立っている状態を想像してみよう。尋常ではない。帽子をかぶっているとはいえ外はかんかん照りで、頭の中も割れそうなほどに煮えくりかえっているのだろう。暑さのせいばかりではあるまい。この句は長吉の自画像かも、と私は勝手に推察する。いや、人はそれぞれ自分の頭の中に、否応なく「崖」を持っていると言えないだろうか。「崖などない」と嘯くことのできる人は幸いなるかな。長吉の俳句を「遊俳」(趣味的な俳句)と命名したのは筑紫磐井である。「やや余技めいた、浮世離れした意味で理解される」(磐井)俳句、結構ですな。長吉には「頭の中の崖に咲く石蕗の花」という句もある。石蕗はどことなく陰気な花である。『車谷長吉句集・改訂増補版』(2005)所収。(八木忠栄)




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