ケータイを電話機として使う人が減っているそうだ。そう願いたい。邪魔音反対。(哲




2007ソスN7ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2372007

 割り算の余りの始末きうりもみ

                           上野遊馬

でもそうだろうが、苦手な言葉というものがある。私の場合は、掲句の「始末」がそうである。辞書で調べると、おおまかに四つの意味があって、次のようだ。(1)(物事の)しめくくりを付けること。「―を付ける」(2)倹約すること。「―して使う」(3)結果。主として悪い状態についていう。「この―です」(4)事の始めから終わりまで。……ところが私には、どうも(2)の意味がしっくり来ない。そのような意味で使う地方や環境にいなかったせいだと思う。小説などに出てくると、しばしば意味がわからずうろたえてしまう。この句の「始末」も(2)の意味なのだろう。が、一読、やはり一瞬うろたえた後で、やっと気がつき、はははと笑うような「始末」であった。要するに「きうりもみ」は、「割り算の余り」の部分を「倹約」したような料理だということのようだ。どうしても割り切れずに余った部分は、紙の上の割り算であれば放置することも可能だけれど、それでもそれこそ割り切れない思いは残るものである。ましてや、現実の食べ物であるキュウリにおいておや。ならば、他の料理の使い余しのキュウリは、「始末」良く「きうりもみ」にして食べてしまおう。そう思い決めて、せっせと揉んでいるところなのである。「(胡)瓜揉み」なる夏の季語があるほどに、昔は一般的な料理だったが、いまの家庭ではどうなのだろうか。あまり作らないような気もするが、むろんこれは掲句と関係のない別の問題だ。俳誌「翔臨」(第59号・2007年6月)所載。(清水哲男)


July 2272007

 うつす手に光る蛍や指のまた

                           炭 太祇

しかちょうど一年前の暑い盛りだったと思います。日記をめくってみたら7月16日の日曜日でした。腕で汗をぬぐいながら歩いていると、前方を歩く八木幹夫さんの姿を見つけたのです。後を追って、神田神保町の学士会館で開かれた「増俳記念会の日」に参加したのでした。その日の兼題が「蛍」でした。掲句を読んでそれを思い出したのです。あの日、選ばれた「蛍」の句を、清水さんが紹介されていた姿を思い出します。さて、「うつす」は「移す」と書くのでしょうか。しずかにそっと壊さないで移動することを言っているのでしょう。それでも、わざわざひらがなで書かれているので、「映す」という文字も思い浮かびます。手のひらに蛍がその光で、姿を反映している様です。つかまえた蛍を両手で囲えば、「指のまた」が、人の透ける場所として目の前に現れます。こんなに薄い部位をわたしたちの肉体は持っていたのかと、あらためて気付きます。句はあくまでもひっそりと輝いています。思わずからだを乗り出して目を凝らしたくなるようです。蛍をつかまえたことのないわたしにも近しく感じるのは、この句が蛍だけではなく、蛍に照らし返された人のあやうさをも詠んでいるからなのです。『俳句鑑賞歳時記』(2000・角川書店)所載。(松下育男)


July 2172007

 飛魚に瞬間の別世界あり

                           岡安仁義

夏から夏、北上して産卵する飛魚、地方によっては夏告げ魚と呼ぶ。そういった意味では今取り上げるのはちょっと遅いかな、とも思うが、はっきりしない梅雨曇りのよどんだ気分を、ぱっと晴れさせてくれた一句であった。あれは小学生の頃だったか、飛び魚の群を見た記憶がある。細かいことは覚えていないが、水面から飛び出した飛魚の白い腹が、光った空にとける瞬間の記憶がある。気が遠くなるような真夏の太陽と、真っ青な海がよみがえるが、あの瞬間、飛魚は水中とはまったく違う世界を体感していたのだ。飛魚は、大きい魚から身を守るために飛ぶのだという。本当に追いつめられると、五百メートル近く滑空するというから驚く。句集の前後の句から、作者は飛魚を目の当たりにしていたのだろう。近づいて来た漁船から逃れようと文字通り飛び出した飛魚に、ふと同化している。瞬間という時間と、別世界という空間が、句に不思議な立体感を与えると共に、五、五、七の加速する破調が、躍動感を感じさせる。飛魚の、思いのほか大きい目に映る別世界を思う。『藍』(1995)所収。(今井肖子)




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