台風と地震でさんざんの三連休。参院選で徹底的に御祓いをしなければ。(哲




2007ソスN7ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1772007

 涼しさよ人と生まれて飯を食ひ

                           大元祐子

外なことに「涼」とは夏の季題である。暑い夏だからこそ覚える涼気をさし、手元の改造社「俳諧歳時記」から抜くと、「夏は暑きを常とすれど、朝夕の涼しさ、風に依る涼しさ等、五感による涼味を示す称」とあり、前項の「釜中にあるが如き」と解説される「暑き日」や「極暑」の隣にやせ我慢のように並んでいる。食事をすると体温はわずかに上昇する。これは「食事誘発性体熱産生反応」という生理現象だという。掲句では「飯を食う」という手荒い言葉を用いることによって、食べることが生きるために必要な原始的な行動であることを印象付けている。また、その汗にまみれた行為のなかで、今ここに生きている意味そのものを照射する。体温が上昇する生理現象とはまったく逆であるはずの涼しさを感じる心の側面には、喜びがあり、後悔があり、人間として生きていくことのさまざまな逡巡が含まれているように思える。ものを食うという日常のあたりまえの行為が、「涼し」という季題が持つやせ我慢的背景によって、知的動物の悲しみを伴った。そういえば、汗と涙はほとんど同じ成分でできているのだった。大元祐子『人と生まれて』(2005)所収。(土肥あき子)


July 1672007

 三伏や弱火を知らぬ中華鍋

                           鷹羽狩行

語は「三伏(さんぷく)」で夏。しからば「三伏」とは何ぞや。と聞くと、陰陽五行説なんぞが出てきて、ややこしいことになる。簡単に言えば、夏至の後の第三の庚(かのえ)の日を「初伏」、第四のその日を「中伏」、立秋後の第一の庚の日を「末伏」として、あわせて三伏というわけだ。「伏」は夏(火)の勢いが秋(金)の気を伏する(押さえ込む)の意。今年は、それぞれ7月15日、7月25日、8月14日にあたる。要するに、一年中でいちばん暑いころのことで、昔は暑中見舞いの挨拶を「三伏の候」ではじめる人も多かった。そんな酷暑の候に暑さも暑し、いや熱さも熱し、年中強火にさらされている中華鍋(金)をどすんと置いてみせたところが掲句のミソだ。弱火を知らぬ鍋を伏するほどの暑さというのだから、想像するだけでたまらないけれど、たまらないだけに、句のイメージは一瞬にして脳裡に焼き付いてしまう。しかもこの句の良いところは、「熱には熱を」「火には火を」などと言うと、往々にして教訓めいた中身に流れやすいのだが、それがまったく無い点だ。見事にあつけらかんとしていて、それだけになんとも言えない可笑しみがある。その可笑しみが、「暑い暑い」と甲斐なき不平たらたらの私たちにも伝染して、読者自身もただ力なく笑うしかないことをしぶしぶ引き受けるのである。こうした諧謔の巧みさにおいて、作者は当今随一の技あり俳人だと思う。『十五峯』(2007)。(清水哲男)


July 1572007

 隣る世へ道がありさう落し文

                           手塚美佐

語は「落し文」、夏です。おそらく歳時記を読むことがなければ、出会うことのなかった名前です。動物です。昆虫のことです。オトシブミ科というものがあるということです。辞書を調べると、「クヌギ・ナラなどの葉を巻いて巻物の書状に似た巣を作り、卵を産みつける。その後、切って地上に落とす」とあります。なんとも風流な名前です。むろん虫にとっては、「落し文」だのなんだのという理屈は関係ないのですが、卵を葉に巻くという行為は、自分の子を守ろうとする本能に支えられてのものであり、その名に負けぬ深い思いを、感じることが出来ます。巻いた葉に文字は書かれていなくても、その行為には、親の切なる願いが込められていることは間違いがありません。掲句、「隣る世」とは、次の世代とでもいう意味でしょうか。作者は「落し文」を地上に見つけて、この文が宛てられた先の世界を想像しています。「隣」という語が、子が親に接触するあたたかな近さを感じさせます。さらに作者自身の生きてゆく先の可能性をも、明るく想像しているのでしょうか。虫にとっては手元から「落す」という行為ですが、それはまぎれもなく子を、自然の摂理へ両腕を挙げて捧げあげることの、言い換えのように感じられます。『生と死の歳時記』(1999・法研)所載。(松下育男)




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