蟄」隱槭′遲埼」ッ縺ョ句

July 0272007

 娘が炊きし味は婚家の筍飯

                           矢崎康子

語は「筍飯」で夏。といっても、もう時期的には遅いかな。筍飯にする孟宗のそれは五月ごろが旬だから。さて、掲句、類句や似た発想の句は山ほどありそうだ。「筍飯」を「豆ご飯」や「栗ご飯」と入れ替えても、句は成立する。が、作者はそんなことを気にする必要はない。また読者も、そうした理由によってこの句をおとしめてはならない。そんなことは些細なことだ。人のオリジナリティなどは知れているし、ましてや短い詩型の俳句においては、類想をこわがっていては何も詠めないことになってしまう。思ったように、自由気ままに詠むのがいちばんである。母の日あたりの句だろうか。久しぶりに婚家から戻ってきた娘が、台所に立ってくれた。筍飯は、母である作者の好物なのだろう。だから嫁入り前の娘にも、味付けの仕方はしっかりと仕込んであったはずだ。が、娘がつくってくれたご飯の味は、作者流のそれとは違っていたというのである。明らかに、嫁ぎ先で習ったのであろう味に変わっていた。そのことによる母としての一抹の寂しさと、娘が親離れして大人になったこととのまぶしさの間の、瞬時の心の行き交いが、この句の「味」の全てである。味の違いに気づかぬふりをして、きれいに食べている母親の優しさよ。俳誌「日矢」(2007年7月号)所載。(清水哲男)


May 3052012

 生き方の他人みなうまし筍飯

                           嶋岡 晨

飯、麦飯なども夏の季語とされるけれども、やはり筍飯は初夏の到来を告げる、この時季ならではの飛び切りのご馳走である。若いときはともかく、人は齢を重ねるにしたがって、生き方がうまいとか、要領が良いとか良くないとか、自他ともに気になってくるようだ。が、うまい/うまくないは“運”もあるだろうし、努力だけではどうしようもないところがあって、なかなか思うように運ばないのが世の常。いや、とかく他人(ひと)さまのほうが、自分より生き方がうまいように思えるものでもある。おいしい筍飯を食べて初夏の味を満喫している時だから、いっそう自省されるということなのだろう。掲句の「うまし」はもちろん他人の生き方のことだが、同時に「筍飯」にも懸かっていると読解すべきだろう。(蛇足:私は筍の季節になると、連日のように煮物であれ、焼物であれ、筍飯であれ、一年分の筍を集中的に食べてしまう。日に三度でも結構。ところが今年は、セシウム汚染で地元千葉のおいしい筍は出荷停止となり、筍を食べる機会は数回で終ってしまった。食ベモノノ恨ミハ怖イゼヨ! 満足できない初夏であった。)晨には他に「水底に沈めし羞恥心太」がある。『孤食』(2006)所収。(八木忠栄)


April 2142015

 土を出てでんぐり返る春の水

                           森島裕雄

元の歳時記によると「春の水」とは、豊かであることが本意であるとされる。水が「でんぐり返る」ことで、勢いよく豊富な水量を思わせ、また春らしい瑞々しさを感じさせる。それはまるで、生まれたばかりの赤ん坊が誕生してすぐ大きな泣き声をあげるように、暗い地中を這っていた水が、春の日差しに触れたことで、喜びにもんどりうっているようにも見えるのだ。水が流れとして誕生する瞬間に立ち会っている感動に、作者もまた胸をおどらせながら春の水面を見つめているのだろう。〈筍ご飯涙のやうな味がして〉〈立ち乗りの少年入道雲に入る〉『みどり書房』(2015)所収。(土肥あき子)




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