やはり出てきた、社保庁職員を名乗る電話詐欺。人の不安につけこむ卑怯な犯罪。(哲




2007ソスN6ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1362007

 夏山のかぶさつてゐる小駅かな

                           田中冬二

蒼と緑が繁り盛りあがり、緑がしたたらんばかりの夏山である。大波がうねるように濃い緑が暑さをものともせず起ちあがり、覆いかぶさって、麓の小さな駅を一呑みにせんばかりの勢いである。まかなかワイドな景色ではないか。小駅を配したことによって、対比的に夏山がいっそう大きく感じられる。のみならず「かぶさつてゐる」という描写によって、夏山があたかも巨大な生きもののようにダイナミックに感じられる。信州あたりの実景かもしれない。かぶさるような山の緑に、今にも圧しつぶされそうになっている小さな駅に対する、作者の慈しみの心を看過してはなるまい。冬二の詩にも同じような心を読みとることができる。私事で恐縮だが、中学生の頃にアンソロジーで出会った詩集『青い夜道』のなかの詩が気に入って、まめにノートに書き写したりした一時期があった。「ぢぢいと ばばあが/だまつて 湯に入つてゐる」なんて短詩は、掲出句の世界と今やとても近いものに感じられる。こうした何のてらいもない句が、何かの拍子に人の心に覆いかぶさってくることだってあり得る。うれしいことだ。冬二には、ほかに「白南風や皿にこぼれし鱚(きす)の塩」という夏の句もある。『行人』(1946)『麦ほこり』(1964)二冊の句集があり、俳句について冬二はこう述べている。「これまで俳句を詩作の側、時にそのデッサンとして試作してきたが、本格的の俳句は決して生やさしいものでない」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1262007

 夜濯のはじめは水を見てをりぬ

                           坂本 緑

濯(よすすぎ)とは夜する洗濯のこと。「夏はその日の汗にまみれた肌着類を夜風が立ってから洗濯して干しても翌朝にはもう乾いてしまう。昼間勤めている女性や主婦は、夏は涼しい夜に洗濯することが多かった」と歳時記にはある。今の時代、盥で洗濯する機会はほとんどないだろうが、ぐるぐる回る洗濯機の水をぼーっと眺めていることは時折ある。清々しい朝の洗濯とはひと味違い、夜濯は一日の記憶がまだあらわな、体温が生々しく残っているものを洗ってしまうことの、なぜとはない不安や戸惑いがよぎる。作者の作品の多くは、日常を丁寧に掬い取り新鮮な側面を捕える。例えば〈あとついてくる掃除機や雛の間〉では主婦の忠実な手足となる電化製品との関係が、また〈蚕豆といふ幸せのかたちかな〉〈一人遊びの会話聞きつつ毛糸編む〉など、幸せな家庭のひとコマが再現される。しかし、掲句には愁いが澱のように沈んでいる。それは歳時記の実利的な本意とはまったく別に、まるで夜濯とは、夜吹く笛のようにしてはいけないことに思えてくる。夜濯の水に映ってしまう形のない不安を振り切るように、女たちは洗濯物を月にさらし、明日の新しい太陽を浴びさせるのである。『幸せのかたち』(2006)所収。(土肥あき子)


June 1162007

 螢火に男の唇の照らさるる

                           折井眞琴

の「男」が作者とどういう関係にあるのかは、わからない。でも、そのほうが良い。見知らぬ男というわけにはいくまいが、恋人や愛人のたぐいでもないだろう。作者に掌のなかでか、虫かごのなかでか、明滅している蛍を気軽に見せてくれるほどの近しさの男である。親族や兄弟かもしれないし、単なる隣近所の知りあいかもしれない。男が見せようと近づけてきたのは「螢火」であるのだが、のぞき込もうとした作者は、蛍の光よりも、それに照らされた男の「唇」に目がいってしまった。すなわち、それまでには感じたことのなかった人に、一瞬生の「男」を感じたのである。それがどうしたということでもないのだけれど、このように相手が突然突出して異性化する瞬間は、男女を問わず、誰にも思い当たるフシはあると思う。その瞬きする間ほどのエロスを、作者はよく形象化し得ている。同工の句に「弟の指美しき梅雨の家」もあって、作者の腕前もさることながら、このような内容をさらりと表現せしめる俳句という様式には、感じ入らないわけにはいかない。『孔雀の庭』(2007)所収。(清水哲男)




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