「日本一酷暑の街・大阪」と某紙。私は「名古屋」だと思うけど、皆さんは如何。(哲




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June 1262007

 夜濯のはじめは水を見てをりぬ

                           坂本 緑

濯(よすすぎ)とは夜する洗濯のこと。「夏はその日の汗にまみれた肌着類を夜風が立ってから洗濯して干しても翌朝にはもう乾いてしまう。昼間勤めている女性や主婦は、夏は涼しい夜に洗濯することが多かった」と歳時記にはある。今の時代、盥で洗濯する機会はほとんどないだろうが、ぐるぐる回る洗濯機の水をぼーっと眺めていることは時折ある。清々しい朝の洗濯とはひと味違い、夜濯は一日の記憶がまだあらわな、体温が生々しく残っているものを洗ってしまうことの、なぜとはない不安や戸惑いがよぎる。作者の作品の多くは、日常を丁寧に掬い取り新鮮な側面を捕える。例えば〈あとついてくる掃除機や雛の間〉では主婦の忠実な手足となる電化製品との関係が、また〈蚕豆といふ幸せのかたちかな〉〈一人遊びの会話聞きつつ毛糸編む〉など、幸せな家庭のひとコマが再現される。しかし、掲句には愁いが澱のように沈んでいる。それは歳時記の実利的な本意とはまったく別に、まるで夜濯とは、夜吹く笛のようにしてはいけないことに思えてくる。夜濯の水に映ってしまう形のない不安を振り切るように、女たちは洗濯物を月にさらし、明日の新しい太陽を浴びさせるのである。『幸せのかたち』(2006)所収。(土肥あき子)


June 1162007

 螢火に男の唇の照らさるる

                           折井眞琴

の「男」が作者とどういう関係にあるのかは、わからない。でも、そのほうが良い。見知らぬ男というわけにはいくまいが、恋人や愛人のたぐいでもないだろう。作者に掌のなかでか、虫かごのなかでか、明滅している蛍を気軽に見せてくれるほどの近しさの男である。親族や兄弟かもしれないし、単なる隣近所の知りあいかもしれない。男が見せようと近づけてきたのは「螢火」であるのだが、のぞき込もうとした作者は、蛍の光よりも、それに照らされた男の「唇」に目がいってしまった。すなわち、それまでには感じたことのなかった人に、一瞬生の「男」を感じたのである。それがどうしたということでもないのだけれど、このように相手が突然突出して異性化する瞬間は、男女を問わず、誰にも思い当たるフシはあると思う。その瞬きする間ほどのエロスを、作者はよく形象化し得ている。同工の句に「弟の指美しき梅雨の家」もあって、作者の腕前もさることながら、このような内容をさらりと表現せしめる俳句という様式には、感じ入らないわけにはいかない。『孔雀の庭』(2007)所収。(清水哲男)


June 1062007

 金魚屋のとゞまるところ濡れにけり

                           飴山 實

ういえばかつては金魚を、天秤棒に提げたタライの中に入れ、売っている人がいたのでした。実際に見た憶えがあるのですが、テレビの時代劇からの記憶だったのかもしれません。考えてみれば、食物でもないのに、小さな生命が路上で売り買いされていたのです。たしかに「金魚」というのは、命でありながら同時に、水の中を泳ぐきれいな「飾り物」のようでもあります。掲句の意味は解説するまでもなく、金魚売りがとまったところに、タライの水が道にこぼれ、濡れた跡がついているというものです。どうということのない情景ですが、水がこちらまで沁みてくるような、しっとりとした印象を持ちます。こぼれた水は夏の道に、濃い斑点のように模様を描いています。句から見えてくるのは、どこまでも続くひと気のない広い道です。道の両側には軒の低い家々が建ち並んでいます。目をこらせば、かなり遠くまで行った金魚売の後姿が見えます。揺れる水を運ぶ人の上に、夏の日差しが容赦なく照りつけています。「キンギョエー、キンギョー」物売りのための高い声は、命のはかなさに向けて、ひたすら叫ばれているようにも聞こえてきます。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)




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