あーあ、週末くらいは休みたいな。とも思うけど、休むってどうすることかな。(哲




2007蟷エ6譛9譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

June 0962007

 眼のほかは長所なき顔サングラス

                           吉村ひさ志

どいこと言うなあ…クスッとしつつ思った。眼のほかに長所がない、と断言しているのだ。しかしよく考えると褒めているのだとわかってくる、よほど素敵な眼の持ち主なのである。目、でなく、眼であるから、その眼差しにまた表情のある魅力的な女性(おそらく)なのだろう。これがもし、眼のほかに、であったとしたら、まああえて長所をあげるなら眼だね、と、「長所なき顔」が強調される。それを、眼のほかは、と、限定の助詞「は」にしたことで、魅力的な眼が強調され、サングラスをはずしたその眼をあれこれ想像しつつ、個性的であろうその女性への作者の親愛の情もうかがえる。成瀬正としに〈サングラス瞳失せても美しや〉という正攻法の一句があるが、掲句の味わいは捨てがたい。句集に並んで〈団扇手に今は平和な老夫婦〉とある。団扇という季題も効いているが、やはり、「は」という助詞がうまく働いている一句と思う。あとがきに、「大方の季題を理解し、見たまま、思ったことを五・七・五で表現するのには、五十年の句歴が必要であるとの思いである。」とある作者だが、昨年二月急逝されたと聞く。享年八十歳。あとがきにはまた、句集の名は、作者が愛した故郷群馬のぶな林からとった、とも。〈踏む音の独りの時の登山靴〉『ぶな(木ヘンに無)林』(1999)所収。(今井肖子)


June 0862007

 わが金魚死せり初めてわが手にとる

                           橋本美代子

魚が死んだ。長い間飼っていたので犬や猫と同様家族の一員として存在してきた。死んだ金魚を初めて掌に乗せた。触れることで癒されたり癒したりするペットと違って、一度も触れ合うことのない付き合いだったから、死んで初めて触れ合うことが出来たのだった。空気の中に生きる我等と、水中に生きる彼等の生きる場所の違いが切なく感じられる。この金魚は季題の本意を負わない。夏という季節は意味内容に関連してこない。この句のテーマは「初めてわが手にとる」。季題はあるけれど季節感はない。そこに狙いはないのである。もうひとつ、この素気ない読者を突き放すような下句は山口誓子の文体。「空蝉を妹が手にせり欲しと思ふ」「新入生靴むすぶ顔の充血する」の書き方を踏襲する。誓子は情感を押し付けない。切れ字で見せ場を強調しない。下句の字余りの終止形は自分の実感を自分で確認して充足している体である。作者のモノローグを読者は強く意識させられ自分の方を向かない述懐に惹き入れられる。橋本多佳子の「時計直り来たれり家を露とりまく」も同じ。誓子の文体が脈々と繋がっている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


June 0762007

 赤ん坊のかなしみ移る赤ん坊

                           和泉香津子

育所や小児科の待合室で隣り合わせた赤ん坊の一人が泣き始めると、じっとその様子を見ていた近くの赤ん坊の目が潤み、真っ黒な瞳にみるみる涙がせりあがってくるそんなシーンが想像される。言葉がまだ話せない赤ん坊だからこそ、喜び、怒り、苛立ち、といった感情はストレートに伝わるのだろう。風邪のように、かなしみが「移る」と表現したところに発見がある。夜泣きしている赤ちゃんも抱っこしているお母さんがイライラしているとよけい激しく泣く。赤ちゃんは柔らかい身体全体に感情を探知するアンテナを持っているみたいだ。掲句の中心になるのは「赤ん坊」という初々しい生命体に宿る「かなしみ」という感情だろうが、ひらがな書きのこの言葉に漢字を当てるとしたらどれだろう。漢和辞典を調べてみると「哀」は心に哀れさを生じさせる感情で反対語は「楽」になっている。「悲」はものに感じて心がせつなく思う気持ち、不幸などに遭って泣きたくなる気持ちで反対語は「喜」になっている。赤ん坊の状態を思うと、どちらも当てはまるようにも思うが、「悲しみ」が近いだろうか。今まで母親の胎内にしっかり抱かれていた赤ん坊にとっては一人で寝かされることもかなしみの種なのだろうか。おしめも濡れていない、ミルクもやったばかりの赤ん坊が理由もなく泣き出すのは空漠とした世界に生み落とされた心細さに耐えかねて泣いているのかもしれない。『現代俳句12人集』(1986)所載。(三宅やよい)




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