やれやれ、やっと勝ったぜ、タイガース。これでホッとして博多に行けます。(哲




2007ソスN5ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1152007

 品川過ぎ五月の酔いは夜空渡る

                           森田緑郎

郎さんはどこから出てどこへ帰るおつもりなのか。品川は多くの鉄道路線が通っている。僕は家が横浜なので東京方面で用事を済ませると山手線が品川に着く前に乗り換え作戦を考える。東海道線、京浜東北線、京浜急行。この三択だ。横須賀線に乗って万が一乗り過ごすととんでもないところを回ってえらい時間がかかるのでこれはだめ。その前に新宿、渋谷、恵比寿を通る場合は、湘南ライナーも有効だが、これは終電が早いので、「酔い」がまわるころはもう選択外である。しかし、どの選択も猛烈な混み具合を覚悟せねばならない。とにかく足が宙に浮くというのも大げさではないくらい。僕は怒りと諦めの中でこの苦痛に耐える。家畜運搬車とか、「アウシュビッツ行き」というような不吉な言葉が頭を掠める。「労働者よ、怒れ。電車を停めて革命だ」そうしたら品川なんか毎日が騒乱罪だ。戦後すぐの混雑を体験している人も同様の思いだろう。「客車に窓から乗ったことがある」って僕が言ったら、詩人の井川博年さんなんか、「僕は網棚に寝たことがある」って言ってたもんな。緑郎さんの酔いは紳士の酔いだ。混雑もまた良し、初夏の夜空を眺めて行こうよ、と言っている。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


May 1052007

 そらまめのみんな笑つて僧のまへ

                           奥坂まや

らまめは莢が空にむかって茎につくことから「空豆」。莢のかたちが蚕の繭に似ていることから「蚕豆」の字があてられるようになったという。「おたふく豆」は、そらまめの中でも特に大粒の実の品種を指すようだ。この句の面白さはそらまめがお多福の顔になってコロコロ笑っている景と、講話を聴くため僧の前に並んでいる人達が笑っている情景の二つが同時に含まれているように思えるところである。これは上五の「の」が軽い切れを含むとともに、「みんな」という不特定多数を表す言葉に掛かっていくからだろう。インターネット事典ウィキペディアによると、そらまめは花に黒い斑点があり、豆にも黒い線が入っている。そのせいか古代ギリシャやローマでは葬儀の食物に用いられたそうだ。ピタゴラスはそらまめの茎が冥界とつながっており、莢の中には死者の魂が入っていると考えたという。僧侶はあの世とこの世の橋渡しを司る人。そらまめと僧の結びつきを考えると、この情景はこの世の情景を描きながらも、日常からちょっとはみ出た次元の世界を描いているように想像できる。時空を超えたその世界にそらまめの「笑い」を響かせると、その笑い声はただ明るい童話的な笑いでなく、不気味な哄笑の雰囲気もあり、それもまた面白く感じられる。『縄文』(2005)所収。(三宅やよい)


May 0952007

 船頭も饂飩うつなり五月雨

                           泉 鏡花

にヘソマガリぶるつもりはないけれど、芭蕉や蕪村の五月雨の名句は、あえて避けて通らせていただこう。「広辞苑」によれば、「さ」は五月(サツキ)のサに同じ、「みだれ」は水垂(ミダレ)の意だという。春の花たちによる狂躁が終わって、梅雨をむかえるまでのしばしホッとする時季の長雨である。雨にたたられて、いつもより少々暇ができた船頭さんが、無聊を慰めようというのだろうか、「さて、今日はひとつ・・・・」と、うどん打ちに精出している。本来の仕事が忙しいために、ご無沙汰していたお楽しみなのだろう。雨を集めて幾分流れが早くなっている川の、岸辺に舫ってある自分の舟が見えているのかもしれない。窓越しに舟に視線をちらちら送りながら、ウデをふるっている。船頭仕事で鍛えられたたくましいウデっぷしが打っていくうどんは、まずかろうはずがない。船頭仲間も何人か集まっていて、遠慮なく冷やかしているのかもしれない。「船頭やめて、うどん屋でも始めたら?」(笑)。あの鏡花文学とは、およそ表情を異にしている掲出句。しかし、うどんを打つ船頭をじっと観察しているまなざしは、鏡花の一面を物語っているように思われる。鏡花の句は美しすぎて甘すぎて・・・・と評する人もあるし、そういう句もある。けれども「田鼠や薩摩芋ひく葉の戦(そよ)ぎ」などは、いかにも鏡花らしく繊細だが、決して甘くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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