はや立夏。まとまりのつかぬまま大型連休も終わる。まあ休みなんてこんなものか。(哲




2007ソスN5ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0652007

 路地に子がにはかに増えて夏は来ぬ

                           菖蒲あや

年詩を書いていると、あらかじめ情感や雰囲気を身につけている言葉を使うことに注意深くなります。その言葉の持つイメージによって、作品が縛られてしまうからです。その情感から逃れようとするのか、むしろそれを利用して取り込もうとするのかは、作者の姿勢によって違います。ただ、詩と違って、短期勝負の俳句にとっては、そんな屁理屈を振り回している暇はないのかもしれません。もしも語が特別な情をかもし出すなら、それを利用しない手はないのです。「路地」という言葉を目にすれば、多くの人は、共通の懐かしさや温かさを感じることが出来ます。掲句を読んで、はっきりとした情景が目に浮かぶのは、この語のおかげなのだろうと思われます。細い道の両側から、軒が低くかぶさっています。その隙間から初夏の空が遠く覗いています。狭い道端には、乱雑に鉢植えや如雨露(じょうろ)が置いてあり、地面にはろうせきで描かれた線路のいたずら書きや、石蹴りで遊ばれたあとの丸や四角が描かれています。急に暑さを感じた昼に、引き戸を開けて道に出れば、どこから湧き出してきたのか、たくさんの子どもたちが走り回っています。植物がその背丈を伸ばすように、自然の一部としての「子ども」という生き物が増殖して、家から弾き飛ばされてきたかのようです。ぶつからないように歩くわたしも、今年の夏が与えられたことを、確実に知るのです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 0552007

 揺れつつ海へ伸びゆく道や子供の日

                           中村草田男

月五日が子供の日として祝日になったのは、戦後間もなくの昭和二十三年のこと。子供の人格を重んじ、幸福をはかるという趣旨で端午の節句があてられたという。最近は子供が甘やかされているから年中子供の日ではないか、などと言われもするが、社会全体で子供の幸せを願おうというのは健全な発想だろう。作者は、昭和八年から三十年間余り、東京の私立成蹊学園で教鞭をとっていた。病気や大学転部などで、三十二歳とやや遅めの就職である。その翌年の句に〈入学試験幼き頸の溝深く〉などあり、子供との関わりの中で生まれた句も多いことだろう。掲句、一読して、海へ伸びゆく道、はすんなりわかる。広々とした海へ続く道。そこに、上五を七音にしてまで、揺れつつ、である。揺れているのは何なのか。道は自由の海へ続いている。しかしそこを歩いて行く時、立ち止まったり、ためらったり、時には引き返そうかと思ったりしてしまう。やはり、そんな十代のいわゆる思春期の不安定な心持ちが、揺れているのだろう。そしてそれを包みこむ、作者の慈しみの視線がある。だからこそ、伸びゆく道や、という力強い表現に、健やかなれ、という願いが感じられ、本来の子供の日の一句となっている。『草田男季寄せ』(1985・萬緑「草田男季寄せ」刊行会)所載。(今井肖子)


May 0452007

 しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る

                           富安風生

快なリズム、童心が微笑ましくも楽しい。こういう句はどうやったらできるかな。俳句に過剰な期待をかけないことかもしれない。「右手で自己の人間悪、左手で社会悪と闘う」そんな内容を楸邨は句集『野哭』の後記で述べている。そういう気張り方では、こういう句はできない。状況を見遣り自己を見つめ追いつめ、対象の実相に肉薄しようとする。この句は楸邨の作り方と対極に見える。僕は後者の方の傾向を選択したから、まずその伝でいくわけだけど、だからこそこういう傾向の魅力に憧れるところがある。求心的傾向がときにスベッテしまうのは、盛り込みたい内容がふくらみすぎてひとりよがりになってしまい、混沌とし過ぎて伝達性が失われてしまうから。逆にこういう句は類想陳腐の何百もの駄作の果てに得られる稀有の一句だろうと思う。平明と平凡は紙一重なのだ。眉間に皺を寄せて苦吟しても、口をぽかんと空けて小学校低学年になりきっても、秀句にいたる道はどっちもどっちなのだから俳句は難しい。ところでこの句の「来る」は「きたる」。最近は歴史的仮名遣い派でも「来たる」と表記する場合が多い。下の五音だから「来る」と書いても読者はかならず「きたる」と読んでくれる、という信頼感が無いんだろう。そういう点にも歴史的仮名遣いの崩壊は着実に進行していると思わざるを得ない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)




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