東京六大学野球開幕。神宮は超満員になりそう。東大戦では史上初でしょうね。(哲




2007ソスN4ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1442007

 止ることばかり考へ風車

                           後藤比奈夫

船、石鹸玉、ぶらんこ、そして風車。いずれも春季である。一年中見られるが、やはりどれも光る風がよく似合う。そんな春風に勢いよく回る風車を見ながら作者は、止まることばかり考えている、という。風車が、からからと音を立てて回っているのを見ているのはいかにも心地良い。混ざり合った羽根の色は淡く、日差しを巻き込みはね返し、回り続ける。そのうち風が止んで、ゆっくりと止まってしまった風車の羽根の色は、うららかな風景にとけこむことのない原色である。くっきりとした色彩と輪郭、現実の形を見せながら止まったままの風車。再び回りだした風車を見つめながら、少し前までとはちがう心が働くのである。風があれば回らざるを得ない風車、止ることばかり考える風車はさらに大きく風をとらえる。そこに、回っているからこそ風車なのだという風車の本質が描かれる。月ごとの風景と俳句を綴った随筆『俳句の見える風景』(後藤比奈夫著)の中で作者は、「四月は陽気で、好き放題言えそうですが、実は目の位置と心の角度が何よりも大切な月なのです。」と述べている。心を働かせて見る、それが、観る、ということなのだろう。引用文も含め『俳句の見える風景』(1999・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


April 1342007

 鬼はみな一歯も欠けず春の山

                           友岡子郷

は怖ろしい口を開けて、むしゃむしゃとなんでも食べてしまうから歯が丈夫であらねばならない。虫歯を持った鬼なんて想像もできない。春の山は木々の花の色を映してカラフル。明るい日差しと青空を背景に、そこに住む鬼も極めて健康的なのだ。民話の中の鬼は悪さをするがどこか間が抜けていて憎めない。最後は退治されたり懲らしめられて泣きながら山に逃げ去ったりと、どこか哀れな印象さえ漂う。草田男、楸邨などのいわゆる「人間探求派」の作品傾向についてよく使われる向日性という言葉がある。虚子が言った「俳句は極楽の文学」という言葉もある。両者とも、辛い、暗い、悲しい内容より、明るい前向きの内容こそが俳句に適合するという意味。苦しい現実を描いてもそのむこうに希望が見えて欲しい。「写生」の対象も明るくあって欲しい。そういう句を目指したいという主張だ。こういう句をみるとそれが納得できる。癌と闘いながら将棋を差した大山康晴永世十五世名人は最晩年、色紙揮毫を頼まれると「鬼」という字を好んで書いたという話を思い出した。誰かが将棋の鬼という意味ですねと尋ねると、そうじゃなくて鬼が近頃夢の中に現れて黄泉の国に連れていこうとするんだ、と話したとあった。これは怖い鬼だ。花神現代俳句『友岡子郷』(1999)所載。(今井 聖)


April 1242007

 鶯や製茶會社のホッチキス

                           渡辺白泉

年の茶摘は何時から始まるのだろう。スーパーの新茶もいいけれど、静岡からいただく自家製のお茶はすばらしくおいしい。新興俳句時代の白泉は「今、ここに在る現実」をタイムリーな言葉で捉える名人だった。製茶会社も鶯もおそらくは静岡に住んでいた白泉の体験から引き出されたものだろう。最近は機械化されて手揉みのお茶は少なくなったらしいけど、掲句が作られたのは昭和32年。製茶会社も家族分業でお茶を摘んで乾かし、小分けに入れた袋をぱちんぱちんとホッチキスで留めてゆく小さな会社だったろう。裏手の竹林からホーホケキョとうぐいすの声がホッチキスを打つ音に合いの手を入れるように聞こえてくる。そんな情景を想像するにしても句に書かれているのは、鶯と製茶会社のホッチキスだけである。二句一章のこの句は眼前のものをひょいと取り合わせたように思えるけど、おのおのの言葉が読み手の想像を広げるため必然を持って置かれている。鶯の色とお茶の色。ホッチキスとウグイスの微妙な韻。直感で選び取られた言葉を統合する「製茶会社」という言葉が入ってこそ取り合わせの妙が生きる。のんびりした雰囲気を醸し出すとともに、どこかおかしみのあるエッセンスを加えた句だと思う。『渡邊白泉全集』(1984)所収。(三宅やよい)




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