中日に勝ちはしたけれど、総合力では中日が上だ。阪神ファンの偽らぬ思いです。(哲




2007ソスN4ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1142007

 畑打つや中の一人は赤い帯

                           森 鴎外

先の陽をいっぱいに浴び、人がせっせと畑を打つ風景。それはかつての春の風物詩であった。今はおおかた機械化されてしまって、こうした風景はあまり見られなくなった。年々歳々田や畑から失われていった農村風景である。まだ冬眠をむさぼっている蛙などがあわてて跳び出したり、哀れ鍬の犠牲になったり・・・・鴎外は現場のそんな残酷物語にまで視線を遊ばせることはない。畑のあちらこちらで鍬を振るう姿が散見されるなかで、一人だけ赤い帯をきりりと締めて黙々と畑を打っている女性に目を奪われた。農家の若い嫁さんが、目立つ赤い帯をして農作業をしている姿は、私の目の隅っこにも鮮やかに残っている。野良仕事のなかにも、女性のおしゃれは慎ましくもしっかり息づいていた。何かの折に目にした光景であろうか、鴎外にしてはやわらかいハッとした驚きが生きている。鴎外に対する先入観とのズレを感じさせるような、その詠いぶりに興味をおぼえた。鴎外は俳句もたくさん残している。同じように農村風景を題材にした句に「うらゝかやげんげ菜の花笠の人」がある。初めて尾崎紅葉に紹介されたとき、鴎外はこう言ったという。「長いものは秋の夜と鴎外の論文、短いものは兎の尾と紅葉の小説」。紅葉の俳句もよく知られているが、「長いもの」と自らを皮肉った鴎外が、いっぽうで短詩型に親しんだというのも皮肉?『鴎外全集』19(1973)所収。(八木忠栄)


April 1042007

 つぎつぎと嫁がせる馬鹿花吹雪

                           福井隆子

冷えが続いた陽気に、ずいぶん長持ちしたように思う今年の桜だが、花吹雪も一段落し、これからは桜蘂(さくらしべ)を降らす段に入った。桜は花を落としたのち、ひときわ紅く燃え立つように見えることがあるが、これは深紅に近い色彩の蘂があらわになるためだ。掲句に竹下しづの女の「短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてつちまおか)」をふと重ねる。しづの女が母親入門の句であるなら、掲句は母親卒業の句である。しづの女は乳飲み子を前に母性から噴出する一瞬の狂気を描き、掲句は手塩にかけたわが子をあっさりと手放したあとの自嘲と諦観を詠んでいる。「馬鹿」と軽口めきながらも、そこには同時に健やかな巣立ちの喜びと誇らしさがあり、はらはらと散る桜の花びらが、長いお母さん業卒業の祝福の花吹雪にも見えてくる。母の強さはこの超然とした態度にあるのだと思う。元気でいてくれたらそれで結構、そんなおおらかな気分が母性の終点にはある。惜しみない時間を愛する子供に費やしたあとは、自分の時間をたくましく開拓していくのだ。まるで花吹雪のあとの桜が、一層力強く鮮やかな表情を見せるように。『つぎつぎと』(2004)所収。(土肥あき子)


April 0942007

 はんなりといけずな言葉春日傘

                           朝日彩湖

都には六年間いたけれど、いまひとつ「はんなり」も「いけず」も、その真とする語意が分からない。辞書を引くと、「はんなり」は「落ち着いたはなやかさを持つさま。上品に明るいさま。視覚・聴覚・味覚にもいう」、「いけず」は「(「行けず」の意から)#強情なこと。意地の悪いこと。また、そういう人。いかず。#わるもの。ならずもの」[広辞苑第五版]などと出ている。説明するとすればこうとでも言うしかないのだろうが、実際に使われている生きた言葉を聞いてきた感じでは、これではニュアンスが伝わってこないと思う。したがって、揚句の解釈に自信の持ちようもないのだが、解釈以前の感覚の問題としては分かるような気がする。作者は大津(滋賀県)在住なので、このあたりの語感の機微にはよく通じている人だろう。春日傘をさした京美人の明るく上品なたたずまいには、実はしっかりと「いけず」な心が根付いているという皮肉である。なんか、わかるんだよねえ、この作者の気持ちは。意地が悪いというのとはちょっと違うし、ましてや強情とも違う。そんな個人的なことではなくて、伝統的に土地の人に根付いてきた自己防衛本能に近い感性ないしは性格のありようが、句の春日傘の女性にも露出しているとでも言うべきか。方言句は難しいが、面白い。なお、作者は男性です。『いけず』(2007)所収。(清水哲男)




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