中田カウス・ボタンのファンだが、あの週刊新潮の記事は何を意図しているのか。(哲




2007ソスN4ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1042007

 つぎつぎと嫁がせる馬鹿花吹雪

                           福井隆子

冷えが続いた陽気に、ずいぶん長持ちしたように思う今年の桜だが、花吹雪も一段落し、これからは桜蘂(さくらしべ)を降らす段に入った。桜は花を落としたのち、ひときわ紅く燃え立つように見えることがあるが、これは深紅に近い色彩の蘂があらわになるためだ。掲句に竹下しづの女の「短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてつちまおか)」をふと重ねる。しづの女が母親入門の句であるなら、掲句は母親卒業の句である。しづの女は乳飲み子を前に母性から噴出する一瞬の狂気を描き、掲句は手塩にかけたわが子をあっさりと手放したあとの自嘲と諦観を詠んでいる。「馬鹿」と軽口めきながらも、そこには同時に健やかな巣立ちの喜びと誇らしさがあり、はらはらと散る桜の花びらが、長いお母さん業卒業の祝福の花吹雪にも見えてくる。母の強さはこの超然とした態度にあるのだと思う。元気でいてくれたらそれで結構、そんなおおらかな気分が母性の終点にはある。惜しみない時間を愛する子供に費やしたあとは、自分の時間をたくましく開拓していくのだ。まるで花吹雪のあとの桜が、一層力強く鮮やかな表情を見せるように。『つぎつぎと』(2004)所収。(土肥あき子)


April 0942007

 はんなりといけずな言葉春日傘

                           朝日彩湖

都には六年間いたけれど、いまひとつ「はんなり」も「いけず」も、その真とする語意が分からない。辞書を引くと、「はんなり」は「落ち着いたはなやかさを持つさま。上品に明るいさま。視覚・聴覚・味覚にもいう」、「いけず」は「(「行けず」の意から)#強情なこと。意地の悪いこと。また、そういう人。いかず。#わるもの。ならずもの」[広辞苑第五版]などと出ている。説明するとすればこうとでも言うしかないのだろうが、実際に使われている生きた言葉を聞いてきた感じでは、これではニュアンスが伝わってこないと思う。したがって、揚句の解釈に自信の持ちようもないのだが、解釈以前の感覚の問題としては分かるような気がする。作者は大津(滋賀県)在住なので、このあたりの語感の機微にはよく通じている人だろう。春日傘をさした京美人の明るく上品なたたずまいには、実はしっかりと「いけず」な心が根付いているという皮肉である。なんか、わかるんだよねえ、この作者の気持ちは。意地が悪いというのとはちょっと違うし、ましてや強情とも違う。そんな個人的なことではなくて、伝統的に土地の人に根付いてきた自己防衛本能に近い感性ないしは性格のありようが、句の春日傘の女性にも露出しているとでも言うべきか。方言句は難しいが、面白い。なお、作者は男性です。『いけず』(2007)所収。(清水哲男)


April 0842007

 三つ食へば葉三片や桜餅

                           高浜虚子

月八日、虚子忌です。桜餅という、名前も姿も色も味も、すべてがやわらかなものを詠っています。パックにした桜餅は、最近はよくスーパーのレジの脇においてあります。買い物籠をレジに置いたときに、その姿を見れば、つい手に取ってかごの中に入れたくなります。「葉三片や」というのは、「葉三片」が皿の上に残っているということでしょうか。つまり、葉を食べていないのです。わたしは、桜餅の葉は一緒に食べてしまいます。あんなに柔らかく餅と一体化したものを、わざわざ剥がしたくないのです。もしもこれが三人で食べた句なら、三人が三人とも葉を残したことになりますが、この句ではやはり、一人で三つ食べたと言っているのでしょう。どことなくとぼけた味のある句です。男が桜餅を三つも食べること自体が、ユーモラスに感じられます。ああいうものは、一人にひとつずつ、軽やかに味わうもので、続けざまに口に入れるものではありません。句全体がすなおで、ふんわりしています。個性的で、ぎらぎらしていて、才能をこれみよがしにしたものではありません。虚子からのそれが、ひとつのメッセージなのかもしれません。さらに、これほどに当たり前のことをわざわざ作品にする、俳句の持つ特異性を、考えさせる一句ではあります。『合本 俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




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