選抜決勝は常葉菊川と希望枠の大垣日大。双方とも「予想外」の快進撃だった。(哲




2007N43句(前日までの二句を含む)

April 0342007

 保育器の足裏に墨春の昼

                           瀧 洋子

院で新生児の取り違えがないように足の裏に名前を書くというのは、ずいぶんアナログなことで、過去の話しだとばかりと思っていたのだが、デジタル社会の現在でも行われているところがあるらしい。「一番大切なことは機械まかせにできません」という、あたたかみのある気概をなんとも微笑ましく思いつつ、小さな足裏に黒々と名前を書かれ、並べられている赤ん坊の姿を思い浮かべる。そこでふと、まだ名があるとは思えない新生児に書かれる名とは名字なのだと思い当たり、生まれ落ちてすぐに名字があることの不思議に思い当たる。それは、目の前にある命に行き着くまでの歴史を思わせ、その名が書かれたことにより霊験あらたかなる護符のように、足裏から一族の愛情のかたまりが強く浸透していくように思えてくるのだった。そして掲句は保育器のなかのできごと。かたわらに寝息を感じ、胸に抱くことが叶わぬわが子である。小さなカプセルのなかで動く、真っ白な足裏に書かれている名前は、確かにここに存在する命の証のように、黒々とした墨色はさぞかし目に沁み、胸を塞ぐことだろう。保育器を囲む眼差しはみな、このやわらかな足裏が、大地に触れ、力強く跳ね回る日を願っている。だんだん欲張りになってしまう子育てだが、「元気に育て」と切なる祈りが育児のスタートなのだと、あらためて思うのだった。『背景』(2006)所収。(土肥あき子)


April 0242007

 茎立ちや壁をつらぬく瓦釘

                           石井孤傘

語は「茎立(ち)」で春。「くくだち」あるいは「くきだち」と読む。暖かくなってきて、大根や蕪、菜類の花茎が高く抜きんでることを言う。揚句の前書きには「粗忽(そこつ)の釘」とあって、落語の演目の一つだ。したがって、この噺を知らないと、句の意味はわからない。噺は、粗忽者の大工が長屋に引っ越してくるところからはじまる。箒をかけたいので長い釘を打ってくれと女房に言われた男が、長さも長し、八寸もある瓦釘を柱に打つつもりが、手元狂って壁に打ち込んでしまった。なにせ貧乏長屋のことだから、壁は隣りの物音が聞こえるくらいに薄い。壁をつらぬいた釘は、当然隣家に突き抜けているはずだ。さあ、大変。とにかく謝ってこようということになり、男が隣家を訪ねたまではよかったのだが……(この噺はここで聞けます)。つまり揚句のねらいは、うっかり壁をつらぬいてしまった瓦釘を、これも茎立の一つだとみなした可笑しみにある。いかにも暢気で茫洋とした春らしい見立てだ。と、微笑する読者もおられるだろう。実は、揚句の載っている句集は、他もすべて落語をテーマにした句で構成されている(全377句)。なかで揚句は巧くいっているほうだと思うが、全体的にはいまいちの句が多いと見た。笑いに取材して、新たな笑いを誘い出すのは、至難の業に近いようだ。『落語の句帖』(2007)所収。(清水哲男)


April 0142007

 小当たりに恋の告白四月馬鹿

                           中村ふじ子

月一日です。エイプリルフールです。では、ということで、いくつかの歳時記にあたってみたのですが、「四月馬鹿」あるいは「万愚節」を季語にした句は、どれもピンときません。とってつけたように「四月馬鹿」が句の中に置いてあるだけのように感じるのです。そんな中で、素直に入ってきたのが掲句です。「こ」の音のリズムに、遊び心が感じられます。たぶん、同じ職場の人について言っているのでしょう。いつもひそかにその人のことを思っています。でも深刻な顔で告白する勇気はありません。だめだったときに気まずくなってしまうだろうと思うと、ためらいが出てくるのです。それならばエイプリルフールに、ちょっとした「当たり」をつけてみたらどうだろうと考えたのです。仮に断られても、「冗談冗談」と言って済ませられる日だと、逃げ場を作ったのです。「小当たりに」のところがたしかに、人を好きになった者の弱みと微妙な心理が描かれていて、納得できます。しかし、どう考えてもこの作戦は、うまくゆくようには思えません。告白するほどの思いなら、ずっと当人の胸を痛め、頭を占めてきたはずです。つまり人生の一大事であるはずなのです。四月一日に「小当たりに」なんて、もったいないと思うのです。好きなら好きで、もっと死に物狂いになって、正面からきちんと告白したほうがよいと、わたしの経験から思うのですが。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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