2007N4句

April 0142007

 小当たりに恋の告白四月馬鹿

                           中村ふじ子

月一日です。エイプリルフールです。では、ということで、いくつかの歳時記にあたってみたのですが、「四月馬鹿」あるいは「万愚節」を季語にした句は、どれもピンときません。とってつけたように「四月馬鹿」が句の中に置いてあるだけのように感じるのです。そんな中で、素直に入ってきたのが掲句です。「こ」の音のリズムに、遊び心が感じられます。たぶん、同じ職場の人について言っているのでしょう。いつもひそかにその人のことを思っています。でも深刻な顔で告白する勇気はありません。だめだったときに気まずくなってしまうだろうと思うと、ためらいが出てくるのです。それならばエイプリルフールに、ちょっとした「当たり」をつけてみたらどうだろうと考えたのです。仮に断られても、「冗談冗談」と言って済ませられる日だと、逃げ場を作ったのです。「小当たりに」のところがたしかに、人を好きになった者の弱みと微妙な心理が描かれていて、納得できます。しかし、どう考えてもこの作戦は、うまくゆくようには思えません。告白するほどの思いなら、ずっと当人の胸を痛め、頭を占めてきたはずです。つまり人生の一大事であるはずなのです。四月一日に「小当たりに」なんて、もったいないと思うのです。好きなら好きで、もっと死に物狂いになって、正面からきちんと告白したほうがよいと、わたしの経験から思うのですが。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


April 0242007

 茎立ちや壁をつらぬく瓦釘

                           石井孤傘

語は「茎立(ち)」で春。「くくだち」あるいは「くきだち」と読む。暖かくなってきて、大根や蕪、菜類の花茎が高く抜きんでることを言う。揚句の前書きには「粗忽(そこつ)の釘」とあって、落語の演目の一つだ。したがって、この噺を知らないと、句の意味はわからない。噺は、粗忽者の大工が長屋に引っ越してくるところからはじまる。箒をかけたいので長い釘を打ってくれと女房に言われた男が、長さも長し、八寸もある瓦釘を柱に打つつもりが、手元狂って壁に打ち込んでしまった。なにせ貧乏長屋のことだから、壁は隣りの物音が聞こえるくらいに薄い。壁をつらぬいた釘は、当然隣家に突き抜けているはずだ。さあ、大変。とにかく謝ってこようということになり、男が隣家を訪ねたまではよかったのだが……(この噺はここで聞けます)。つまり揚句のねらいは、うっかり壁をつらぬいてしまった瓦釘を、これも茎立の一つだとみなした可笑しみにある。いかにも暢気で茫洋とした春らしい見立てだ。と、微笑する読者もおられるだろう。実は、揚句の載っている句集は、他もすべて落語をテーマにした句で構成されている(全377句)。なかで揚句は巧くいっているほうだと思うが、全体的にはいまいちの句が多いと見た。笑いに取材して、新たな笑いを誘い出すのは、至難の業に近いようだ。『落語の句帖』(2007)所収。(清水哲男)


April 0342007

 保育器の足裏に墨春の昼

                           瀧 洋子

院で新生児の取り違えがないように足の裏に名前を書くというのは、ずいぶんアナログなことで、過去の話しだとばかりと思っていたのだが、デジタル社会の現在でも行われているところがあるらしい。「一番大切なことは機械まかせにできません」という、あたたかみのある気概をなんとも微笑ましく思いつつ、小さな足裏に黒々と名前を書かれ、並べられている赤ん坊の姿を思い浮かべる。そこでふと、まだ名があるとは思えない新生児に書かれる名とは名字なのだと思い当たり、生まれ落ちてすぐに名字があることの不思議に思い当たる。それは、目の前にある命に行き着くまでの歴史を思わせ、その名が書かれたことにより霊験あらたかなる護符のように、足裏から一族の愛情のかたまりが強く浸透していくように思えてくるのだった。そして掲句は保育器のなかのできごと。かたわらに寝息を感じ、胸に抱くことが叶わぬわが子である。小さなカプセルのなかで動く、真っ白な足裏に書かれている名前は、確かにここに存在する命の証のように、黒々とした墨色はさぞかし目に沁み、胸を塞ぐことだろう。保育器を囲む眼差しはみな、このやわらかな足裏が、大地に触れ、力強く跳ね回る日を願っている。だんだん欲張りになってしまう子育てだが、「元気に育て」と切なる祈りが育児のスタートなのだと、あらためて思うのだった。『背景』(2006)所収。(土肥あき子)


April 0442007

 肩越しにふりむくと/背後は桜の花に/覆われていた

                           アレン・ギンズバーグ

レン・ギンズバーグはアメリカのビート派を代表する詩人。彼には『Mostly Sitting Haiku』(1978)という句集が一冊あるが、まだ日本では訳句集として刊行されていない。掲出句は中上哲夫訳。原文は「Looking over my shoulder/my behind was covered/with cherry blossoms」。桜の花を特別なとらえ方をしているわけでも、技巧をこらして詠んでいるわけでもない。背後をふりむいて、ぎっしりといちめんに咲いている桜に圧倒された、その驚き。毎年桜を観ている私たち日本人とはちがった強いショックを、ギンズバーグは当然覚えただろう。中上によれば、英文学者R.H.ブライスに『俳句』四巻本があるとのこと。掲出句には、1955年に「バークレー市にある小屋で『俳句』を読みながら作った俳句」というギンズバーグの前書きが付いている。代表作「HOWL」を書いた翌年である。あるインタビューで「黒い表紙の俳句の本が宝物だったよ」と語っている。ケルアックやスナイダーらも、さかんに俳句を作ったことはよく知られている。ケルアックの死後に出版された『俳句の本』(2003)には八百句近くが収められているとのこと。詩・禅・俳句――それらは彼らの精神のなかで緊密に連関していた。掲出句からおよそ20年後のギンズバーグに「鼻にとまった蝿よ/わたしは仏陀ではない/そこに悟りはないよ」(中上哲夫訳)という、ユーモラスで禅的な俳句がある。蛇足ながら、1988年10月に、シルバーのネクタイをしめたギンズバーグが砂防会館のステージに登場したとき、私は興奮のあまりからだが震えた。「現代詩手帖特集版・総特集=アレン・ギンズバーグ」(1997)所載。(八木忠栄)


April 0542007

 子供よくきてからすのゑんどうある草地

                           川島彷徨子

らすのゑんどうは子供達になじみの春の草花だ。4月から5月ごろに赤紫の小さい花とともにうす緑の細い莢ができる。先っちょにくるくる巻いた蔓も愛らしく、明るい莢の中には粟粒ほどの実が一列にならんでいる。その先端を斜めにちぎり、息を吹き込んでブーブーッ鳴らして遊ぶ。カラスノエンドウの呼び名の由来は人間の食べるエンドウより小さく、スズメノエンドウよりはちょっと大きいからとか。植物の名前にカラスやスズメがつくのは大きさの目安であるようだ。昔は町のあちこちに掲句のような草地があった。放課後女の子が誘い合ってはシロツメ草で花冠を作ったり、四つ葉のクローバーを探したりした。「子供きて」だと、子供が来た草地をたまたま目にしたという印象だが、「子供よくきて」と字余りに強調した表現から、春の草花が生い茂る近所の草地に子供達が毎日賑やかに集まって来る様子がわかる。彼らを見る作者の目が優しいのは自分の子供時代の思い出を重ね合わせているからだろうか。暑くなればカラスノエンドウは荒々しい夏草に覆い隠されてしまう。次に子供達の遊び相手になるのは何だろう。そんなことを楽しく思わせる句だ。彷徨子(ほうこうし)の作品は眼前を詠んでもどこか郷愁を帯びた抒情を感じさせる。「夏休の記憶罅だらけの波止場」「鶏小舎掃除糸瓜に幾度ぶつかれる」『現代俳句全集』二巻(1958)所載。(三宅やよい)


April 0642007

 春風にこぼれて赤し歯磨粉

                           正岡子規

々の食事の内容について克明な記録を残した点から子規を健啖家として捉える評や句は多くある。子規忌の「詠み方」としてそれは一典型となっている。結核性腹膜炎で、腹に穴が開き、そこから噴出す腹水やら膿やらと、寝たきりの排泄の不自由さに思いを致して、凄まじい悪臭が身辺を覆っていたという見方もよく見かける視点である。子規が生涯独身で、母と妹が看病していたが、その妹への愛情やその裏返しとしての侮蔑についてもよく語られるところ。特異な状況下におかれた人のその特異さについてはさまざまな角度から評者は想像を膨らませていくわけである。それが子規を語る上のテーマになったりする。しかし、死に瀕した人間が特殊なことに固執したり、健常者から見れば悲惨な状況に置かれたりするのはむしろ当然のこと。そういう状況が、どうその俳人の俳句に影響を与えたのか、与えなかったのかの見方の方に僕などは興味が湧く。子規の日記に歯痛についての記述もあるから、この句から歯槽膿漏の口臭について解説する人がいたとしても不思議はないが、僕は歯磨粉という日常的素材と「赤し」の色彩について「写生」の本質を思う。そのときその瞬間の「視覚」の在り処が「生」そのものを刻印する。「見える」「感じる」ということの原点を思わせるのである。子規の「写生」は、「神社仏閣老病死」の諷詠でなかったことだけは確かである。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


April 0742007

 水に置く落花一片づつ白し

                           藤松遊子

年も桜の季節が終わってゆく東京である。思わぬ寒波がやってきたり、開花予想が訂正されたり、あたふたしているのは人間。一年かけて育まれたその花は、日に風に存分に咲き、雨に散りながら、土に帰ってゆく。蕾をほどいた桜の花弁は、わずかな紅をにじませながら白く透き通っている。その花びらが水面に浮かび、流れるともなくたゆたっている様子を詠んだ一句である。珍しくない景なのだが、水に置く、という叙し方に、一歩踏み込んだ心のありようを感じる。「浮く」であれば、状態を述べることになるが、「置く」。置く、を辞書で調べると、あるがままその位置にとどめるの意。さらに、手をふれずにいる、葬るなどの意も。咲いていることが生きていることだとすれば、枝を離れた瞬間に、花はその生命を失う。水面に降り込む落花、そのひとひらひとひらの持つ命の余韻が、作者の澄んだ心にはっきりと見えたのだろう。今は水面に浮き、やがて流され朽ちて水底に沈む花片。自然の流れに逆らうことなくくり返される営みは続いてゆく。白し、という言い切りが景を際だたせると共に、無常観を与えている。遺句集『富嶽』(2004)所収。(今井肖子)


April 0842007

 三つ食へば葉三片や桜餅

                           高浜虚子

月八日、虚子忌です。桜餅という、名前も姿も色も味も、すべてがやわらかなものを詠っています。パックにした桜餅は、最近はよくスーパーのレジの脇においてあります。買い物籠をレジに置いたときに、その姿を見れば、つい手に取ってかごの中に入れたくなります。「葉三片や」というのは、「葉三片」が皿の上に残っているということでしょうか。つまり、葉を食べていないのです。わたしは、桜餅の葉は一緒に食べてしまいます。あんなに柔らかく餅と一体化したものを、わざわざ剥がしたくないのです。もしもこれが三人で食べた句なら、三人が三人とも葉を残したことになりますが、この句ではやはり、一人で三つ食べたと言っているのでしょう。どことなくとぼけた味のある句です。男が桜餅を三つも食べること自体が、ユーモラスに感じられます。ああいうものは、一人にひとつずつ、軽やかに味わうもので、続けざまに口に入れるものではありません。句全体がすなおで、ふんわりしています。個性的で、ぎらぎらしていて、才能をこれみよがしにしたものではありません。虚子からのそれが、ひとつのメッセージなのかもしれません。さらに、これほどに当たり前のことをわざわざ作品にする、俳句の持つ特異性を、考えさせる一句ではあります。『合本 俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


April 0942007

 はんなりといけずな言葉春日傘

                           朝日彩湖

都には六年間いたけれど、いまひとつ「はんなり」も「いけず」も、その真とする語意が分からない。辞書を引くと、「はんなり」は「落ち着いたはなやかさを持つさま。上品に明るいさま。視覚・聴覚・味覚にもいう」、「いけず」は「(「行けず」の意から)#強情なこと。意地の悪いこと。また、そういう人。いかず。#わるもの。ならずもの」[広辞苑第五版]などと出ている。説明するとすればこうとでも言うしかないのだろうが、実際に使われている生きた言葉を聞いてきた感じでは、これではニュアンスが伝わってこないと思う。したがって、揚句の解釈に自信の持ちようもないのだが、解釈以前の感覚の問題としては分かるような気がする。作者は大津(滋賀県)在住なので、このあたりの語感の機微にはよく通じている人だろう。春日傘をさした京美人の明るく上品なたたずまいには、実はしっかりと「いけず」な心が根付いているという皮肉である。なんか、わかるんだよねえ、この作者の気持ちは。意地が悪いというのとはちょっと違うし、ましてや強情とも違う。そんな個人的なことではなくて、伝統的に土地の人に根付いてきた自己防衛本能に近い感性ないしは性格のありようが、句の春日傘の女性にも露出しているとでも言うべきか。方言句は難しいが、面白い。なお、作者は男性です。『いけず』(2007)所収。(清水哲男)


April 1042007

 つぎつぎと嫁がせる馬鹿花吹雪

                           福井隆子

冷えが続いた陽気に、ずいぶん長持ちしたように思う今年の桜だが、花吹雪も一段落し、これからは桜蘂(さくらしべ)を降らす段に入った。桜は花を落としたのち、ひときわ紅く燃え立つように見えることがあるが、これは深紅に近い色彩の蘂があらわになるためだ。掲句に竹下しづの女の「短夜や乳ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてつちまおか)」をふと重ねる。しづの女が母親入門の句であるなら、掲句は母親卒業の句である。しづの女は乳飲み子を前に母性から噴出する一瞬の狂気を描き、掲句は手塩にかけたわが子をあっさりと手放したあとの自嘲と諦観を詠んでいる。「馬鹿」と軽口めきながらも、そこには同時に健やかな巣立ちの喜びと誇らしさがあり、はらはらと散る桜の花びらが、長いお母さん業卒業の祝福の花吹雪にも見えてくる。母の強さはこの超然とした態度にあるのだと思う。元気でいてくれたらそれで結構、そんなおおらかな気分が母性の終点にはある。惜しみない時間を愛する子供に費やしたあとは、自分の時間をたくましく開拓していくのだ。まるで花吹雪のあとの桜が、一層力強く鮮やかな表情を見せるように。『つぎつぎと』(2004)所収。(土肥あき子)


April 1142007

 畑打つや中の一人は赤い帯

                           森 鴎外

先の陽をいっぱいに浴び、人がせっせと畑を打つ風景。それはかつての春の風物詩であった。今はおおかた機械化されてしまって、こうした風景はあまり見られなくなった。年々歳々田や畑から失われていった農村風景である。まだ冬眠をむさぼっている蛙などがあわてて跳び出したり、哀れ鍬の犠牲になったり・・・・鴎外は現場のそんな残酷物語にまで視線を遊ばせることはない。畑のあちらこちらで鍬を振るう姿が散見されるなかで、一人だけ赤い帯をきりりと締めて黙々と畑を打っている女性に目を奪われた。農家の若い嫁さんが、目立つ赤い帯をして農作業をしている姿は、私の目の隅っこにも鮮やかに残っている。野良仕事のなかにも、女性のおしゃれは慎ましくもしっかり息づいていた。何かの折に目にした光景であろうか、鴎外にしてはやわらかいハッとした驚きが生きている。鴎外に対する先入観とのズレを感じさせるような、その詠いぶりに興味をおぼえた。鴎外は俳句もたくさん残している。同じように農村風景を題材にした句に「うらゝかやげんげ菜の花笠の人」がある。初めて尾崎紅葉に紹介されたとき、鴎外はこう言ったという。「長いものは秋の夜と鴎外の論文、短いものは兎の尾と紅葉の小説」。紅葉の俳句もよく知られているが、「長いもの」と自らを皮肉った鴎外が、いっぽうで短詩型に親しんだというのも皮肉?『鴎外全集』19(1973)所収。(八木忠栄)


April 1242007

 鶯や製茶會社のホッチキス

                           渡辺白泉

年の茶摘は何時から始まるのだろう。スーパーの新茶もいいけれど、静岡からいただく自家製のお茶はすばらしくおいしい。新興俳句時代の白泉は「今、ここに在る現実」をタイムリーな言葉で捉える名人だった。製茶会社も鶯もおそらくは静岡に住んでいた白泉の体験から引き出されたものだろう。最近は機械化されて手揉みのお茶は少なくなったらしいけど、掲句が作られたのは昭和32年。製茶会社も家族分業でお茶を摘んで乾かし、小分けに入れた袋をぱちんぱちんとホッチキスで留めてゆく小さな会社だったろう。裏手の竹林からホーホケキョとうぐいすの声がホッチキスを打つ音に合いの手を入れるように聞こえてくる。そんな情景を想像するにしても句に書かれているのは、鶯と製茶会社のホッチキスだけである。二句一章のこの句は眼前のものをひょいと取り合わせたように思えるけど、おのおのの言葉が読み手の想像を広げるため必然を持って置かれている。鶯の色とお茶の色。ホッチキスとウグイスの微妙な韻。直感で選び取られた言葉を統合する「製茶会社」という言葉が入ってこそ取り合わせの妙が生きる。のんびりした雰囲気を醸し出すとともに、どこかおかしみのあるエッセンスを加えた句だと思う。『渡邊白泉全集』(1984)所収。(三宅やよい)


April 1342007

 鬼はみな一歯も欠けず春の山

                           友岡子郷

は怖ろしい口を開けて、むしゃむしゃとなんでも食べてしまうから歯が丈夫であらねばならない。虫歯を持った鬼なんて想像もできない。春の山は木々の花の色を映してカラフル。明るい日差しと青空を背景に、そこに住む鬼も極めて健康的なのだ。民話の中の鬼は悪さをするがどこか間が抜けていて憎めない。最後は退治されたり懲らしめられて泣きながら山に逃げ去ったりと、どこか哀れな印象さえ漂う。草田男、楸邨などのいわゆる「人間探求派」の作品傾向についてよく使われる向日性という言葉がある。虚子が言った「俳句は極楽の文学」という言葉もある。両者とも、辛い、暗い、悲しい内容より、明るい前向きの内容こそが俳句に適合するという意味。苦しい現実を描いてもそのむこうに希望が見えて欲しい。「写生」の対象も明るくあって欲しい。そういう句を目指したいという主張だ。こういう句をみるとそれが納得できる。癌と闘いながら将棋を差した大山康晴永世十五世名人は最晩年、色紙揮毫を頼まれると「鬼」という字を好んで書いたという話を思い出した。誰かが将棋の鬼という意味ですねと尋ねると、そうじゃなくて鬼が近頃夢の中に現れて黄泉の国に連れていこうとするんだ、と話したとあった。これは怖い鬼だ。花神現代俳句『友岡子郷』(1999)所載。(今井 聖)


April 1442007

 止ることばかり考へ風車

                           後藤比奈夫

船、石鹸玉、ぶらんこ、そして風車。いずれも春季である。一年中見られるが、やはりどれも光る風がよく似合う。そんな春風に勢いよく回る風車を見ながら作者は、止まることばかり考えている、という。風車が、からからと音を立てて回っているのを見ているのはいかにも心地良い。混ざり合った羽根の色は淡く、日差しを巻き込みはね返し、回り続ける。そのうち風が止んで、ゆっくりと止まってしまった風車の羽根の色は、うららかな風景にとけこむことのない原色である。くっきりとした色彩と輪郭、現実の形を見せながら止まったままの風車。再び回りだした風車を見つめながら、少し前までとはちがう心が働くのである。風があれば回らざるを得ない風車、止ることばかり考える風車はさらに大きく風をとらえる。そこに、回っているからこそ風車なのだという風車の本質が描かれる。月ごとの風景と俳句を綴った随筆『俳句の見える風景』(後藤比奈夫著)の中で作者は、「四月は陽気で、好き放題言えそうですが、実は目の位置と心の角度が何よりも大切な月なのです。」と述べている。心を働かせて見る、それが、観る、ということなのだろう。引用文も含め『俳句の見える風景』(1999・朝日新聞社)所載。(今井肖子)


April 1542007

 老の身は日の永いにも泪かな

                           小林一茶

つまでも色あせることのない感性、というものがまれにあります。また、文芸にさほどの興味を持たない人にも、たやすく理解され受け入れられる感性、というものがあります。一茶というのは、読めば読むほどに、そのような才を持って生まれた人なのかと思います。遠く、江戸期に生きていたとしても、呟きは直接に、現代を生活しているわたしたちに響いてきます。むろん、創作に没頭していた一茶本人にとっては、そんなことはどうでもよかったのでしょう。自分の句が、将来にわたってみずみずしさを失わないだろうなどとは、少しも思っていなかったに違いありません。それは結果として、たまたまそうであったということなのです。たまたま一茶の発想の根が、人間の時を越えた普遍の部分に結びついていたからなのです。さて掲句、内容を説明する必要はありません。明解な句です。季語は「日永し」、日が永くなるのを実感する春です。まさか、老齢化が進む現代の日本を予想したわけでもないでしょうが、この切実感は、今でこそ読むものに深く入り込んできます。「日が永く」なり、ものみな明るい方向へ進む、そんな時でさえ、わが身を振り返ると泪(なみだ)が流れるのだと言っています。外が明るければ明るいほどに、自分の命という無常の闇は、その濃度を増すようです。特別な題材を扱っているわけではない、変わった表現を駆使しているのでもない、それでも一茶はやはり、特別なのです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 小林一茶』(1980・桜楓社)所収。(松下育男)


April 1642007

 春山を照らせ淡竹のフィラメント

                           賀屋帆穹

読、子供のころを思い出した。家には電気が来ていなかった。集落十数軒のうち、ランプ生活を余儀無くされていたのは、我が家の他に、もう一軒あるだけだった。むろん、貧困のせいである。薄暗いランプでの生活は不自由きわまりない。夜が来るのがいやだった。また、子供心に口惜しかったのは、ラジオが聴けなかったことや雑誌の付録についてくる幻灯機などで遊べなかったことだ。掲句は、エジソンが白熱電灯を作ったとき、日本の竹をフィラメントに採用したというエピソードに依っている。ならば、これだけ淡竹(はちく)が群生している土地だもの、暗くなってきたら、山を煌々と昼間と同じように、春らしくライトアップしてくれないかという意味だろう。ちょっとした機知の生んだ句だけれど、この機知に、私の子供時代の切なる願望が乗り移る。乗り移ると、往時の生活のあれこれが鮮明に脳裏によみがえってくる。作者の句作意図とはかなりはずれたところで、私はこの句に釘付けになってしまったようだ。誤読はわかっているが、俳句とはこうした誤読を許し誘う装置でもあると言えよう。俳誌「里」(2007年4月号)所載。(清水哲男)


April 1742007

 蟻穴を出づひとつぶの影を得て

                           津川絵理子

たたかな太陽に誘われるように、庭に小さな砂山ができ始めた。蟻が巣穴の奥からせっせと運んでは積み上げた小山である。わが家の地底に広がる蟻帝国も盛んに活動を開始したようだ。掲句で作者が見つめる「ひとつぶ」は、蟻の小さな身体を写し取っていると同時に、その一生の労働に対する嘆息も込められているように思う。長い冬を地底で過ごし、春の日差しをまぶしみながら巣穴を出るなやいなや働く蟻たち。一匹につき、ひとつずつ与えられた影を引きながら休みなく働く蟻に、命とは、生きるとは、と考えさせられるのである。昨年友人が「アントクアリウム」なる蟻の観察箱を入手し、庭の蟻を提供することになった。充填された水色のゼリーが餌と土の役割を果し、蟻の活動を観察できるというものだ。美しい水色のお菓子の家で暮らすことができる蟻たちに羨望すら覚えていたが、四方八方が食料であるはずのこの環境でも、彼らは怠けることなく律儀に通路を掘り続ける。冬眠もしないで働き続ける蟻たちを思い、いやこれこそ地獄かもしれない、と考え直した。太陽に照らされ、蝶の羽を引き、また砂糖壺に行列する方が蟻にとって何百倍も幸せだと思うのだった。第三十回俳人協会新人賞受賞。『和音』(2006)所収。(土肥あき子)


April 1842007

 ゆく春や水に雨降る信濃川

                           会津八一

く春、春の終わり、とはいつのこと? もちろん人によって微妙なちがいはあろうけれど、気持ちのいい春がまちがいなく去ってゆく、それを惜しむ心は誰もがもっている。「ゆく春を惜しむ」などという心情は、日本人独特のものであろう。旺洋として越後平野をつらぬいて流れる信濃川に、特に春の水は満々とあふれかえっている。日々ぬくもりつつある大河の水に、なおも雨が降りこむ。もともと雨の多い土地である。穀倉地帯を潤しながら、嵩を増した水は日本海にそそぐ。雨の量と豊かな川の水量がふくらんで、悠々と流れ行く勢いまでもが一緒になって、遠く近く目に見えてくるようだ。信濃川にただ春雨が降っているのではない。八一は敢えて「水に雨降る」と詠って、大河をなす“水”そのものを即物的に意識的にとらえてみせた。温暖だった春も水と一緒に日本海へ押し流されて、越後特有の湿気の多い蒸し暑い夏がやってくる。そうした気候が穀倉地帯を肥沃にしてきた。秋艸道人・八一は信濃川河口の新潟市に生まれた。中学時代から良寛の歌に親しんだが、歌に先がけて俳句を実作し、「ホトトギス」にも投句していた。のちに地域の俳句結社を指導したり、地方紙の俳壇選者もつとめた。俳号は八朔郎。手もとの資料には、18歳(明治32年)の折に詠んだ「児を寺へ頼みて乳母の田植哉」という素朴な句を冒頭にして、七十六句が収められている。「ゆく春」といえば、蕪村の「ゆく春や重たき琵琶の抱心(だきごころ)」も忘れがたい。『新潟県文学全集6』(1996)所収。(八木忠栄)


April 1942007

 呂律まだ整はぬ子にリラ咲ける

                           福永耕二

律(ろれつ)は呂の音と律の音。古くは雅楽の音階を表す言葉であったそうだ。転じて、ものを言うときの言葉の調子を表す。お酒に酔っ払うと呂律が回らなくなるが、「呂律まだ整はぬ」とは、言葉を覚え始めた幼子が靴のことを「くっく」、ブランコのことを「ぶりゃんこ」と舌がよく回らぬなりに伝えようとする様を表している。家にあまりいることのない父親がたまに耳にする片言言葉はさぞ可愛らしく感じられることだろう。ライラックとも呼ばれるリラの花は薄紫色の小花をいっぱいつける可憐な花。「呂律」「リラ」の響き具合が心地よい。リラの花言葉は「若き日の思い出」だとか。甘い香が読み手それぞれの心の中にある幼子との思い出を懐かしくよみがえらせてくれる。幼い子供達、特に女の子はおしゃまになり、口の重い父親などはすぐ言い負かされてしまう。膝にまとわりついて、たどたどしい言葉で親を楽しませてくれた日々はたちまちのうちに過ぎ去る。それが成長というものだろうから子離れの寂しさを感じられる親は幸せなのかもしれない。1980年、42歳の若さで急逝した作者の福永耕二は、この幼子が成人した姿を見届けることはできなかっただろう。『福永耕二句集・踏歌』(1997)所収。(三宅やよい)


April 2042007

 胸の幅いつぱいに出て春の月

                           川崎展宏

宏さんが虚子に興味を持ち始めたのはいつごろからだろう。「寒雷」の編集長を長く勤めた森澄雄さんの周辺にいて、「杉」創刊に参加。理論、実作、その気風からも「寒雷」抒情派の青年将校だった氏はそのまま「杉」の中核となったが、同時に「寒雷」同人として作品を寄せ師加藤楸邨への真摯な敬慕を感じさせた。句会に展宏さんが顔を見せたときの楸邨のうれしそうな顔が忘れられない。「展宏くんいくつになった」「はい、四十を超えました」「この間、大学卒業の挨拶に見えたような気がするけど、もう四十ですか」。句会の席でのそんなやりとりを昨日のことのように覚えている。「杉」参加後の展宏さんは高濱虚子への興味を深め、『虚子から虚子へ』などの著作を著す。花鳥諷詠と新興俳句への疑義が「寒雷」創刊の動機のひとつだったという認識から、僕はいろんなところで展宏さんに咬みついたが、今になってそのことは僕の思慮不足だったように感じている。展宏さんは自分の抒情の質に新しい息吹を注入するために観念派楸邨と対極にある存在から「学んで」いたのだった。こんな句をみるとそのことがよくわかる。「胸の幅いつぱいに」の「幅」は楸邨と共通する「観念」。そこに基づいた上で、この句全体から醸し出すおおらかな「気」は展宏さんが開拓した新しい抒情を示しているように思う。ふらんす堂『季語別川崎展宏句集』(2000)所載。(今井 聖)


April 2142007

 惜春の紐ひいて消す灯かな

                           大久保橙青

夏秋冬、〜めく、という表現は、いずれにもあてはまり、新しい季節の兆しに生まれる句も多い。しかし行くのを惜しまれるのは、春と秋のみ、惜夏、惜冬、とは言わない。夏が好きな私などは、秋の気配を感じると、えも言われず寂しく、去りゆく夏を心情的には惜しむのだが、過ごしやすくなる、という安堵感もまた否めない。それは冬も同様だろう。「望湖水惜春」と前書きのある芭蕉の句〈行春を近江の人とをしみける〉にも見られるように、秋惜む、に比べると、春惜む、惜春、は歴史ある季題である。桜に象徴される華やかな春を惜しむ心持ちには、一抹の寂しさがあり、やわらかい風を、遙かな雲を、のどかな空気を、いとおしみ惜しむのである。芭蕉の句の琵琶湖の大きい景に対して、この句の惜春は、ごく日常的である。現在は、部屋の電気を壁にあるスイッチで消す、というのが大半であろうが、その場合、少し離れた所から間接的にスイッチを押し、暗くなった部屋全体に目をやることになる。しかし、ぶら下がっている紐を、その手で直接ひいて明りを消す時は、引きながらその明りに視線が行く。カチリと消した今日の灯(あかり)の残像が、暗がりの中にぼんやり残っているのを見つつ、また一日が終わったなと、行く春を惜しむ気持になったのだろう。惜春の、で切れており、読み下して晩春の穏やかな闇が広がってゆく。『阿蘇』(1991)所収。(今井肖子)


April 2242007

 朝寝して鏡中落花ひかり過ぐ

                           水原秋桜子

くもこれだけ短い言葉の中で、このようなきらびやかな世界を作ったものだと思います。詩歌の楽しみ方にはいろいろありますが、わたしの場合、とにかく美しく描かれた作品が、理屈ぬきで好きです。読んですぐに目に付くのは、中七の4つの漢字です。これが現代詩なら、めったに「鏡中」だとか「落花」などとは書きません。「鏡のなか」とか、「おちる花」といったほうが、やさしく読者に伝わります。句であるがための工夫が、創作過程で作者によってどれだけなされたかが、想像されます。もちろん読者としてのわたしは、自然に言葉を解きなおし(溶きなおし)、鑑賞しているのです。春が進むにつれて、日々、太陽の射し始める時刻は早まってきます。じりじりと部屋に侵入してくる明るい陽射しでさえも、ふとんの中の心地よい眠りを妨げるものではありません。まして目覚め間際の眠りほど、そのありがたさを実感させてくれるものはありません。けだるい体のままに目を開けると、いきなり飛び込んできたのは、世界そのものではなく、きれいな平面で世界を映した鏡でした。鏡という別世界の中を陽射しが入り込み、さらに光の表面をすべるように花びらが落ちてゆきます。なんだか、目覚めたあとも眠りの中のあたたかな美しさに取り巻かれているようです。潔くも、それだけの句です。『鑑賞俳句歳時記』(1970・文藝春秋社)所収。(松下育男)


April 2342007

 師系図をたぐりし先や藤下がる

                           三輪初子

七で「あれっ」と思わされる。一般的に言って、系図や系統図は「たどる」ものであって「たぐる」ものではないからだ。両者を同義的に「記憶をたぐる」などと使うケースもなくはないけれど、「たぐる」は普通物理的な動作を伴う行為である。つまりここで作者は「師系図」を物質として扱っているのであり、手元のそれを両手で「たぐり」寄せてみたところ、なんとその先には実際の「藤(の花房)」がぶら下がっていたと言うのだ。この機知にはくすりともさせられるけれど、よくよく情景を想像してみると、かなり不気味でもある。たとえば子規や虚子の系統の先の先、つまり現代の「弟子」たちはみな、人間ではなくて群れ咲いている藤の花そのものだったというわけだから、微笑を越えた不気味さのほうを強く感じてしまう。だからと言って掲句に、師系図に批判的な意図があるのかと言えば、そんな様子は感じられない。二次元的な系統図を三次元的なそれに変換することを思いつき実行した結果、このようないわばシュール的な面白い効果が得られたと見ておきたい。この句は作者の春の夢をそのまま記述したようにも思えるし、現実の盛りの「藤」にも、人をどこか茫々とした夢の世界へと誘い込むような風情がある。『火を愛し水を愛して』(2007)所収。(清水哲男)


April 2442007

 リラ冷やガラスの船にガラスの帆

                           大西比呂

ラ(lilas)はフランス語。「ライラック」、ましてや「紫はしどい」より優美な雰囲気が強まる。モクセイ科なので、よく見ると四弁の花の形は金木犀に似ているが、もっと大ぶりで優しい大陸的な甘い香りの花である。この花が咲く頃のふいの寒さを「リラ冷え」と呼ぶ。春はあたたかい日差しをじゅうぶんに感じさせたあとにも、驚くほど冷たい一日があったりする。「リラ冷え」は、昭和35年北海道の俳人榛谷美枝子(はんがいみえこ)氏の俳句から誕生し、昭和46年に渡辺淳一の『リラ冷えの街』で定着したというから、わりあい新しい季語だろう。どちらかというと迷惑な陽気だが、しかし語感の花の名の異国情緒もあいまって、どこか甘美なイメージが漂う。掲句はさらに華奢なガラスの帆船を取り合わせたことで、まるでそんな日にはガラスの船が昼の月へと船出するようなファンタジーがふくらむ。幼い頃、実家の玄関には大きなガラスの帆船があった。慌ただしい小学生だったわたしは、ある日洋服の袖に舳先を引っかけ、粉々にしてしまう。夕方、わたしと弟が父親に呼ばれ、「嘘をついている眼は見ればわかる」と並べられた。度胸のよい姉と、臆病な弟の理不尽な顛末は省略するが、ちくりと胸を刺すさまざまな過去の過ちなども引き連れ、ガラスの船はリラの香りの風をいっぱいにはらませ出帆する。『ガラスの船』(2007)所収。(土肥あき子)


April 2542007

 灯台は立たされ坊主春の富士

                           小林恭二

句評論で活躍している小林恭二に、『春歌』という一冊の尋常ならざる句集がある。「初期句集」と記され、九十三句を収めた句集らしくない趣きの句集。加藤裕将の楽しい挿絵多数。あとがきに「大学二年で俳句を始め、卒業と同時に本格的な句作から手をひきました」とある(在学中は「東大学生俳句会」の一員だった)が、時どき彼の俳句を目にすることがある。中学校時代に「立たされ坊主」をよく経験した者(私)にも、ほほえましく享受できる句である。近くに灯台があり、遠方に富士山が見えていると解釈すれば、ゆるやかな春の光と風のなかに突っ立っている灯台と、彼方にモッコリと立っている(聳えているのではない)富士山とのとり合わせが、いかにも駘蕩としていて、対比的で好ましいのどかな風景になっている。灯台を富士山に重ねる解釈も成り立つだろうけれど、ここはやはり両者が同時に見えているワイド・スクリーンとしてとらえたほうが、春らしい大きな句姿となる。さらに穿った解釈が許されるならば、作者は「東大は立たされ坊主」というアイロニーを裏に忍ばせているのかもしれない。小林恭二は「俳句研究」に毎号「恭二歳時記」を五年間にわたって連載中だが、同誌四月号のインタビューで「(句作を)毎日やっていればまた別なのかもしれませんけれども、二年とか三年に二句詠む、三句詠むなんて、もう面倒臭くて」と答え、実作者としての目は「限りなくゼロに近い」と述懐している。句集には「昼寝覚マッチの頭燃え狂ふ」「ひねくれば動く電気仕掛の俳句かな」などがある。『春歌』(1991)所収。(八木忠栄)


April 2642007

 目刺焼くええんとちゃうかでたらめも

                           児玉硝子

年中ある目刺だけど、春の季語である。春鰯は脂がのっておいしいからと勝手に決めていたが、本当のところはどうなんだろう。掲句は炉辺焼きか、一杯飲み屋か、家庭の風景でもいい。目刺を焼きながら相談ごとを聞いていたおかみさんが、「ええんとちゃうかでたらめも」と、慰めとも解決ともわからないおおらかな言い回しで話を締めくくる場面が思われる。カドの立たない収め方がいかにも大阪といった感じ。目刺を焼く情景と時間が、句にほどよい実感を与えている。口語の文体は親しみ易さ敷居の低さが魅力であるが、話し言葉がすぐ俳句持ち込めるわけではない。日常の言葉を俳句に生かすならそこからある場面や情感を喚起させる力がないとつぶやきに終ってしまう。俳句は時代時代の言葉を取り入れることで詩型に生命を吹き込んできた。口語、特に方言の独特の言い回しに幾重もの連想をたたみこんだ季語を連結することで、斬新なイメージを作り出すことが出来るのではないだろうか。その土地に根付いたニュアンスをどう受けとめるか。9日の「はんなりといけずな言葉春日傘」(朝日彩湖)で清水哲男さんの鑑賞文に「方言句は難しいが面白い」と、あったが本当にその通りだとおもう。各地のお国言葉で書かれた俳句がその土地特有の習慣、食べ物、植物などとともに編纂されれば、俳句を読む楽しみも広がるだろう。『青葉同心』(2004)所収。(三宅やよい)


April 2742007

 春水や子を抛る真似しては止め

                           高浜虚子

の川べりを子供と歩き、抱き上げて抛る真似をする。「ほらあ、落ちるぞ」子供は喜んではしゃぎ声をあげる。ああ、こんなに子煩悩な優しい虚子がいたんだ。普通のお父さん虚子を見るとほっとする。「初空や大悪人虚子の頭上に」「大悪人」と虚子自身も言ってるけど、俳句の天才虚子には、実業家にして政治屋、策士で功利的な側面がいつも見えている。熱狂的追っかけファンの杉田久女に対する仕打ちや、「ホトトギス」第一回同人である原田浜人破門の経緯。そして破門にした同人に後年復帰を許したりする懐の広さというか老獪さというか。そんな例を数え上げたらきりがない。とにかく煮ても焼いても食えない曲者なのだ。虚子は明治七年生まれ。同じ明治でも中村草田男の啓蒙者傾向や加藤楸邨のがちがちの求心的傾向、日野草城なんかのモダンボーイ新しがりと比べると、幅の広さが全然違う。上から見るのではなく、「俗」としっかりと四つに組む。ところでこの句、抛る真似をするのは、他人の子だったら出来ないだろうから自分の子、とすると虚子の二男六女、八人のうちの誰だろう。子の方はこんなシーン覚えているのかな。『五百五十句』(1943)所収。(今井 聖)


April 2842007

 書庫瞑しゆふべおぼろの書魔あそぶ

                           竹下しづの女

、春の夜の物みな朦朧とした感じをいう、と歳時記にある。春特有のぼんやりとした景をいう時、日中は霞、夜は朧、と区別するというが、朧は、草朧や鐘朧のように、ものの形や音の響きが漠としていることを表すこともある。また、さらりと平面的な霞にくらべて、朧には茫洋とした中にどこか妖しさが潜んでいるようにも思える。書物は生きものではないけれど、そこには言霊が文字となって宿っている。子供の頃、昼でも薄暗い図書館の書庫で、あれこれ本を手にとって読むのは幸せな時間だったが、ふと気がつくとまわりに誰もいなかったりすると、不思議な不安感にとらわれたものだ。書魔は、作者の造語というが、それぞれの本にはまさにそんな魔力を持った何かが息づいているように思える。夫が急逝し、五人の子と共にのこされた作者は、その翌年から福岡県立図書館に勤務している。読書欲旺盛で学問好きだったというから、願ってもない職場であったことだろう。日が落ちて、春の宵闇に包まれようとしている書庫の、ほのかに黴臭いような空気感までが、朧という季題を得て不思議なリアリティをもって描かれている。次男、健次郎氏編のこの本の帯には、「理知と才気に溢れた現代女流俳句の先駆者」と書かれている。表紙の隅にはしづの女の写真。ふっくらとした頬に微笑みを浮かべ、少し戸惑っているようにも見える。『解説しづの女句文集』(2000・梓書院)所載。(今井肖子)


April 2942007

 春雨や動かぬ貨車の操車場

                           宮原和雄

供の頃に、大田区の西六郷に住んでいました。近くに蒲田の操車場があり、国鉄(今のJR)関係の仕事に従事している人が多く住んでいました。国鉄職員のための「国鉄アパート」や、社宅がありました。小学校中学校と、そこから通っている友人も多く、よく操車場近くで一緒に遊んでいました。何台もの車両が金網の向こうに見える風景が、いつも日常の中にしっかりとありました。操車場とは言うまでもなく、車両の入れ換え・整備などを行う場所です。「動かぬ」と句の中でも強調しているように、多くの車輌は一見、静かにたたずんでいるかのように見えます。その動かないことが、秘めたエネルギーを感じさせ、間近に見ると圧迫感を持ってせまってきます。季語は春雨。これから生き物が息づいてくる季節に降る雨です。掲句も、明るい方向へ向かう季節の中の操車場を詠っていますが、全体の印象はどちらかと言うと、「勢い」よりもむしろ「休息」です。荷物を降ろしたあとで、貨車は操車場のてのひらに包まれて静かに眠っているようです。その眠りを起こすことなく、車輌を濡らして春の雨が降り続けます。貨車のほっとした吐息が、春のやさしい雨音の向こうから聞こえてきそうです。本日は昭和の日。昭和をどうする日なのかはわかりませんが、わたしが国鉄アパートの階段を駆け上がっていた頃は、昭和もまだ、若い頃でした。『鑑賞歳時記 春』(1995・角川書店)所載。(松下育男)


April 3042007

 北へ行く春と列車ですれちがふ

                           藤井晴子

つてNHKラジオに「日本のメロディー」(1977年〜1991年)という番組があり、愛聴していた。パーソナリティは、独特の語り口で人気のあった中西龍(故人)アナウンサー。掲句は番組の終わりで毎回紹介されていた俳句のなかの一句だ。中西さんは千昌夫の「北国の春」(作詞・いではく)を引用して、この句にコメントをつけていた。とりわけて二番の歌詞の「雪どけせせらぎ丸木橋/からまつの芽がふく北国のああ北国の春」あたりが、いまどきの北海道の季節感にしっくりと来るだろう。調べてみたら、北海道の桜は昨日現在ではまだ咲いていない。青森でも、ちらほらということだった。日本列島は南北に細長く、北国の春が遅いことは誰もが承知している。しかしその承知は頭の中でのそれなのであって、実感として入ってくるのは、実際に列車などで移動するときだ。作者はいま北国から南下中で、車窓の景色がだんだん早春から初夏のようなそれへと移り変わっていく様子に、「北へ行く春」とすれちがっているのだなあと実感している。そんなに情感のある句とは言えないけれど、ちょうどこの季節に旅行する人の実感を素朴にとらえた手柄は評価できる。この実感からもう一歩踏み込めば、もっと良い句になったと思う。惜しい。中西龍『私の俳句鑑賞』(1987)所載。(清水哲男)




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