2007N318句(前日までの二句を含む)

March 1832007

 春雨や火燵の外へ足を出し

                           小西来山

が家の高校生の娘たちは、火燵(こたつ)のある生活を知りません。正月に実家に行ったときに、物珍しそうに何度か入ってみたことがあるだけです。江戸期に詠まれたこの句が、そのまま実感として理解できる時代も、もうそろそろ終りに近づいているのかもしれません。暖炉とか、火鉢とか、火燵とか、その場所へ集まらなければ暖をとれない、ということの意味が、ようやく理解できるようになってきました。みんなが足を運び、顔を並べることの温かさは、なにも暖房器具から発せられる熱だけのせいではなかったのです。家を濡らして朝からえんえんと雨が降り続いています。障子の向こうから聞こえてくる音は、もういきものを冷やすものではありません。とはいうものの、部屋のなかに火燵が置いてあればつい足を入れてしまいます。もう火燵をしまう時期だと思ってから、月日はだいぶ経ちました。そのうちに寒い日がまたあるかも知れないという言い訳も、もうききません。でも、火燵をしまうのに特別な締め切りがあるわけのものでもなし、そのうちに気が向けばしまうさ、と自分のだらしなさを許してしまいます。それにしてもこの陽気では、火燵はさすがに熱く、たまらなくなって足を引き抜きます。火燵の前に両足をたてて膝を抱え、なんとも窮屈な姿勢で、季節に背中を押されているのです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 近世俳人』(1980・桜楓社)所載。(松下育男)


March 1732007

 春愁や心はいつも過去に向く

                           湖東紀子

という字には、草木と同じように秋は人の心も引き締まる、という意味があるという。春愁は、明るい春を迎えているのに、どことなくもの憂い気分になること、とあり、誰もが思い当たる感覚であろう。この、どことなくもの憂い、という感じを一句にするのは難しい。愁いの度が過ぎると、春愁とは言えなくなってくるし、本当にもの憂い気分の時には俳句もうかばない。この句の作者は、春の明るい日差の中で小さくため息をついている。その視線は遠く、彼方の記憶、思い出は濾過されて優しい。過去に向く心には、せっぱ詰まった悩みがあるわけではない。こういう気分になった時そういえばいつもあの頃のことを思い出してるな、と少し離れて自分を見て、ああ、こういう気持が春愁なのかな、と思い当たったのだろう。昨日、今井聖さんの鑑賞文に、「インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか」とあった。本当にそうだ、自戒もこめて。この句の他にいくつか、春愁、の句を読んでいて、何かもやもやした気持になったのは、いかにも春愁らしいでしょ、春愁の感じをとらえているでしょ、という作者の先入観が見えたからなのかもしれない。この句の「いつも」は、心がむく過去が、時代なのか場所なのか人なのかはわからないけれど、何か具体的な大切な思い出という印象を与えている。そしてそんな心の動きをとらえて、明るさを失わない愁いが自然に詠まれている。確かに、心が未来に向いている愁いは、もう少し深刻だろう。『花鳥諷詠』(2000年8月号)所載。(今井肖子)


March 1632007

 初蝶や屋根に子供の屯して

                           飯島晴子

常の中で見たままの風景から感動を引き出すことは、簡単そうに見えて実は一番難しく、それゆえ挑戦しがいのある方法だと僕は思う。一番というのは、俳句のさまざまの手法と比較しての話。僕等は社会的動物だから、先入観を脳の中にインプットされてここに立っている。どんなシーンには感動があって、どんなシーンが「美しい」のか。ホントにホントの「自分」がそう感じ、そう思っているのだろうか。先入観の因子が「ほらきれいだろ」と脳髄に反射的に命令を出してるだけのことじゃないのか。そもそもラッキョウの皮を剥くみたいに、インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか。こういう句を見るとそう思う。屋根に子供がいるだけなら先入観の範疇。あらかじめ準備されたフォルダの中にある。猫が軒を歩いたり、秋の蝶が弱々しかったりするのと同じ。要するに陳腐な類想だ。しかし、「屯して」と書かれた途端に風景の持つ意味は様相を変える。屋根に子供が屯する風景を誰があらかじめ脳の中に溜めておけるだろう。四、五人の子供が屋根の上にいる。考えてみれば、現実に大いに有り得る風景でありながら、である。一日に僕等の目の前に刻々と展開する何千、何万ものシーンから僕等はどうやればインプットされた以外のシーンを切り取れるのか。子規が気づいた「写生」という方法は実はそのことではないのか。この方法は古びるどころか、まだ子規以降、端緒にすら付いていないと僕は思うのですが。『八頭』(1985)所収。(今井 聖)




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