2007N39句(前日までの二句を含む)

March 0932007

 城ある町亡き友の町水草生ふ

                           大野林火

ある町は日本の町の代名詞。小さな出城まで入れると日本中城ある町、または城ありし町だ。城があれば堀があり、春になると岸辺に水草(みぐさ)が繁茂し、水面にも浮いている。生活があればそこに友も出来る。どこに住む誰にでもある風景と思い出がこの句には詰まっている。鳥取市と米子市に八年ずつ住んだ。鳥取市は三十二万五千石。市内の真ん中に城山である久松山(きゅうしょうざん)がどっしりと坐っている。備前岡山からお国替えになった池田氏が城主で、池田さんが岡山から連れてきた和菓子屋が母の実家だった。五、六歳の頃から、お堀に毎日通って、タモで泥を掬ってヤゴを捕った。胸まで泥に浸かって捕るものだから、危険だと何度叱られたかわからない。小学校三年生のときそこで初めてクチボソを釣った。生まれて初めての釣果であるクチボソの顔をまだ覚えている。中学と高校は米子。米子には鳥取の支城の跡があり、城址公園で同級生と初めてのデートをした。原洋子さん可愛かったなあ。その後原さんは歯科医になったらしいが、早世されたと聞いた。僕のお堀通いを叱責した父も母も今は亡く、和菓子屋を継いだ叔父も叔母も近年他界した。茫々たる故郷の思い出の中に城山が今も屹立している。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


March 0832007

 卒業や楊枝で渡すチーズの旗

                           秋元不死男

業式後の謝恩会だろうか。卒業生同士ではなく、クラスの担任かゼミの教授か、年配の社会人から卒業生にチーズの旗をひょいと手渡している雰囲気がある。「旗」と言っても、お子様ランチのてっぺんにある日の丸のようなものではなく、爪楊枝にチーズを刺しただけのものをおどけて表現しているのだろう。旗を渡す行為は、今度は君の番だよ、と今まで自分が負っていた役目を託すことでもある。オリンピックの閉会式で次の開催地へと旗を渡すシーンが象徴的だ。人生の先輩から後輩へ渡す旗が大きなフラッグではなくちっちゃなチーズの旗なのだ。学生生活を終え前途洋々の未来へ胸ふくらます卒業生へ「人生に過大な期待を持つなよ、ほどほどにな。」と、浮き立つ心を現実に引き戻すと同時に「おめでとう」と、華やかな祝福をも滲ませる演出が心憎い。このあたりに不死男特有の苦味あるウィットが感じられる。「不死男の句はどこか漢方薬の入った飴のような味わいがあり、それを人生の地味といえるならまさしくこれは新しい人生派の境地と称していいかも知れない。」と朝日文庫の解説で中井英夫が評しているとおり、不死男の句は後からじんわり効いてくるのだ。『永田耕衣・秋元不死男・平畑静塔集』(1985)所収。(三宅やよい)


March 0732007

 色町や真昼しづかに猫の恋

                           永井荷風

風と色町は切り離すことができない。色町へ足繁くかよった者がとらえた真昼の深い静けさ。夜の脂粉ただよう活況にはまだ間があり、嵐(?)の前の静けさのごとく寝ぼけている町を徘徊していて、ふと、猫のさかる声が聞こえてきたのだろう。さかる猫の声の激しさはただごとではない。雄同士が争う声もこれまたすさまじい。色町の真昼時の恋する猫たちの時ならぬ争闘は、同じ町で今夜も人間たちが、ひそかにくりひろげる〈恋〉の熱い闘いの図を予兆するものでもある。正岡子規に「おそろしや石垣崩す猫の恋」という凄い句があるが、「そんなオーバーな!」と言い切ることはできない。永田耕衣には「恋猫の恋する猫で押し通す」という名句がある。祖父も曽祖父も俳人だった荷風は、二十歳のとき、俳句回覧紙「翠風集」に初めて俳句を発表した。そして生涯に七百句ほどを遺したと言われる。唯一の句集『荷風句集』(1948)がある。「当世風の新派俳句よりは俳諧古句の風流を慕い、江戸情趣の名残を終生追いもとめた荷風の句はたしかに古風、遊俳にひとしい自分流だった」(加藤郁乎『市井風流』)という評言は納得がいく。「行春やゆるむ鼻緒の日和下駄」「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび」――荷風らしい、としか言いようのない春の秀句である。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)




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