2007N3句

March 0132007

 早春の空より青き貨物船

                           岡本亜蘇

先の明るい空よりもっと青い色の貨物船だ。普通に読めば、早春の貨物船を描写した句に思える。しかし、「〜より」を比較ではなく、経由を表す「〜から」の意味で読むと、光あふれる早春の空からまっさおな貨物船がふわふわ舞い降りる不思議な光景が出現する。波止場に横付けになった船の色を即物的に詠んだ句としてもすがすがしい春の季感が感じられるが、別の角度からの読みもまた面白い。貨物船は巨大な胴体に荷物を積んで運搬する船。瀟洒な客船に較べ図体も大きく動きも鈍い。そんな船が軽々と空を渡って岸壁に接岸するシーンを想像するだけで楽しい。生まれ育った神戸では校舎の屋上から、沖に停泊するタンカーが霞んで見えた。カメラを提げて波止場を走り回る少年達は、コンテナや泥臭い運搬船には眼もくれなかったが、紺の船体に赤のラインが入ったスマートなデザインの英国の貨物船は、純白の客船に劣らぬ人気を集めていた。今も神戸の埠頭に豪華客船は入港してくるけど、商船大学は廃止になり、街を闊歩する外国船員の姿も少なくなった。そうした現実を思うとき、青い貨物船と早春の空のみずみずしい取り合わせが、過ぎ去った海運の時代への郷愁をも引き寄せるように感じられる。『西の扉』(2005)所収。(三宅やよい)


March 0232007

 探梅の一壺酒われら明治つ子

                           佐野まもる

を持って梅見に行った明治生まれの私たち。という句である。表現上特段に「見せ場」が無さそうに思えるが、やっぱりこんな句が句会で出たら採ってしまうだろうな。一壺酒(いっこしゅ)という言い方が漢詩調であり、どこか品格を添える。明治っ子という言い方が現代から見れば新鮮で面白い。明治っ子、大正っ子、昭和っ子。元号で世代意識を区切るのは無理として、それでも、価値観のブレなかった時代には、それなりの統一的気風のようなものが生まれる。明治から昭和一桁は世界の強国日本だったから、「万里の長城で小便すればゴビの沙漠に虹が立つ」なんてスケールの意識。大東亜戦争中の軍歌に「ホワイトハウスに日の丸立てて」なんてのもあったらしいが、こうなるともう悲惨な強がりをヤケになって歌っている感じだ。僕の父は大正八年生まれ、見習士官で終戦。大日本帝国の残滓を齧って青年期に入った分、価値観の転換に対するショックも大きい。懐疑派というと内面的なようだが、いじめられた記憶が消せない檻の中の狸のような目線で外を見ていた。和魂洋才、車夫馬丁、帝国大学、天下国家、重工業、信義、信念、倫理、遊郭、男尊女卑、家、士族、平民、天皇。明治生まれのダンディズムはそんな言葉の上に立って一壺酒を携え梅の花を見上げる。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


March 0332007

 春雷の地平線より来りけり

                           小川龍雄

月三日は上巳(じょうし)、いわゆる桃の節句である。古くは、三月上旬の巳(み)の日に行われたのでこう呼ばれるようだが、現在は三月三日の雛祭として定着している。やはりここは雛の句を、と思い、あれこれ探し求めていたところ、今日は、3.3、にちなんで「耳の日」でもあるという。なるほど、語呂もさることながら、算用数字の「3」が耳に見えてくる。そういえば、時々訪れる都心の庭園でも、冬の間は、池を渡る風が耳元で冷たい音をたてる他は、しんとしているが、先だっての少し春めいた日、もうさえずりが始まっており、残る鴨が明るい水音を立てて光をまき散らしていた。耳で、つまり音で感じる季節感、というのも確かにあるなあ、と思っていたところ、掲句である。雷といえば夏季であり、おおむねとどろき渡る。それに対して春雷は、さほど音も大きくなく、長く続かないことが多い。が、この句の、はるかな地平線の彼方から来る春の雷は、まさに冬眠中の虫の目を覚ますという「虫出しの雷」。低く太く響きながら近づいて来る。春の訪れの喜びも感じられる一句だが、詠まれている大地は中国大陸であるという。背景を知らなくても、確かに大陸を想像させ、大きい景が広がる。中華料理では、おこげに熱いあんをかける音を春雷に見立てる、と聞き、なるほどと納得した。同人誌「YUKI」(2007・春号)所載。(今井肖子)


March 0432007

 巻き込んで卒業証書はや古ぶ

                           福永耕二

のめぐり合わせで、わたしは卒業式というものにあまり縁がありません。高校の卒業式は、式半ばで答辞を読む生徒(わたしの親友でした)が、「このような形式だけの式典をわれわれは拒否します」と声高々と読み上げ、舞台に多くの生徒がなだれ込み、そのまま式は中止になりました。時代は七十年安保をむかえようとしていました。そののち大学にはいったものの、連日のバリケード封鎖で、構内で勉強する時間もろくに持たないまま4年生になり、当然のことながら卒業式はありませんでした。学部の事務所へ行って、学生証を見せ、食券を受け取るように卒業証書をもらいました。実に、悲しくなるほどに簡単な儀式でした。式辞も、答辞もありません。高らかに鳴るピアノの音もありません。窓から見える大きな空もありません。薄暗い事務室で、学部事務員と会話を交わすこともなく、卒業証書を巻き込んで筒に入れて、そそくさと高田馬場駅行きのバスに乗り込みました。後に考えればその当時は、時代そのものの卒業であったのかもしれません。掲句、わたしの場合とは違い、卒業証書には、きれいに込められた思いがあるようです。証書はきつく巻き込むことによって、すでに細かな皺がよります。皺がよったのは証書だけではなく、それまでの日々でもあります。卒業した身を待っているのは、筒の中とはあきらかに違う世界です。「古ぶ」と、決然と言い放つことによって、これからの時間がさらにまぶしく、磨かれてゆくようです。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


March 0532007

 なつかしき春風と会ふお茶の水

                           横坂堅二

までは中央大学の移転などにより、昔に比べると数はだいぶ減っているはずだが、それでも依然として「お茶の水」は学生の街だ。近辺には明治大学があり、少し離れてはいるが東京大学にも近い。この駅に降りるたびに、渋谷などとは違った若者たちの健康的な息吹を感じる。所用でお茶の水に降り立った作者は、かつてこの街の学生の一人だったのだ。折から心地よい春の風が吹いていて、神田川に反射している陽光もまぶしい。あたりには、大勢の学生が歩いている。そんな街の雰囲気に誘われるようにして、作者が自然に「なつかしく」思い出しているのは、当時の春の受験や入学のころのあれこれだろう。はじめての都会生活に日々緊張しながらも、大いに張り切って通学していた初心のころのことども……。地味な句だけれど、共感する人は多いはずだ。私は京都の学生だったが、京都にはお茶の水のように、いろいろな大学の学生がいつも雑多に混在しているような街はない。だから揚句の「お茶の水」を、百万遍や京都御所、あるいは荒神口だのと置き替えてみてもどこか間が抜けてしまう。やはりこの句は、街が「お茶の水」だからこそ生きているのだと思った。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


March 0632007

 美と言ひしままの唇雛かな

                           石母田星人

く片付けないとお嫁に行けなくなる、などというナンセンスな理由が現在もまかり通り、早めに出され早々に仕舞われる雛人形であるが、最近は立春に飾り、啓蟄の本日片付けることが多いそうだ。さらに忠実なる場合には、この日に手が付けられない場合には、雛人形たちを後ろ向きにすると、「眠られた」「お帰りになった」という意味を持ち、片付けたことと同様になるのだというが、全員後ろ向きの雛壇とは、さながらホラー映画を思わせる光景であろう。もともと、雛人形という時代がかった姿かたちは、日常とは全く別次元の美しさであることから、そこにはわずかな恐ろしさも含んでいる。人形の唇がうっすらと開いており、そこに米粒よりちいさな白い歯が並んでいることに気づいたのは、ずいぶん小さな時分であったが、そのとき可愛らしいとは対極のはっきりとした恐怖を感じたことを覚えている。確かに口元は掲句の通り「び」という形である。濃い紅に塗られた唇が、口角をひょいと上げ「び」と言いかけた形で固まっている。多くの家庭で今年のお役目が終わり、来年の立春まで、長く暗闇のなかでふたたび暮らす雛人形たち。てんでに納戸の隅に積まれた木箱のなかで、薄紙に包まれて何かを呟いているのだと思うと、それはふと「さびしい」の「び」なのかもしれない、と思うのだ。『濫觴』(2004)所収。(土肥あき子)


March 0732007

 色町や真昼しづかに猫の恋

                           永井荷風

風と色町は切り離すことができない。色町へ足繁くかよった者がとらえた真昼の深い静けさ。夜の脂粉ただよう活況にはまだ間があり、嵐(?)の前の静けさのごとく寝ぼけている町を徘徊していて、ふと、猫のさかる声が聞こえてきたのだろう。さかる猫の声の激しさはただごとではない。雄同士が争う声もこれまたすさまじい。色町の真昼時の恋する猫たちの時ならぬ争闘は、同じ町で今夜も人間たちが、ひそかにくりひろげる〈恋〉の熱い闘いの図を予兆するものでもある。正岡子規に「おそろしや石垣崩す猫の恋」という凄い句があるが、「そんなオーバーな!」と言い切ることはできない。永田耕衣には「恋猫の恋する猫で押し通す」という名句がある。祖父も曽祖父も俳人だった荷風は、二十歳のとき、俳句回覧紙「翠風集」に初めて俳句を発表した。そして生涯に七百句ほどを遺したと言われる。唯一の句集『荷風句集』(1948)がある。「当世風の新派俳句よりは俳諧古句の風流を慕い、江戸情趣の名残を終生追いもとめた荷風の句はたしかに古風、遊俳にひとしい自分流だった」(加藤郁乎『市井風流』)という評言は納得がいく。「行春やゆるむ鼻緒の日和下駄」「葉ざくらや人に知られぬ昼あそび」――荷風らしい、としか言いようのない春の秀句である。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


March 0832007

 卒業や楊枝で渡すチーズの旗

                           秋元不死男

業式後の謝恩会だろうか。卒業生同士ではなく、クラスの担任かゼミの教授か、年配の社会人から卒業生にチーズの旗をひょいと手渡している雰囲気がある。「旗」と言っても、お子様ランチのてっぺんにある日の丸のようなものではなく、爪楊枝にチーズを刺しただけのものをおどけて表現しているのだろう。旗を渡す行為は、今度は君の番だよ、と今まで自分が負っていた役目を託すことでもある。オリンピックの閉会式で次の開催地へと旗を渡すシーンが象徴的だ。人生の先輩から後輩へ渡す旗が大きなフラッグではなくちっちゃなチーズの旗なのだ。学生生活を終え前途洋々の未来へ胸ふくらます卒業生へ「人生に過大な期待を持つなよ、ほどほどにな。」と、浮き立つ心を現実に引き戻すと同時に「おめでとう」と、華やかな祝福をも滲ませる演出が心憎い。このあたりに不死男特有の苦味あるウィットが感じられる。「不死男の句はどこか漢方薬の入った飴のような味わいがあり、それを人生の地味といえるならまさしくこれは新しい人生派の境地と称していいかも知れない。」と朝日文庫の解説で中井英夫が評しているとおり、不死男の句は後からじんわり効いてくるのだ。『永田耕衣・秋元不死男・平畑静塔集』(1985)所収。(三宅やよい)


March 0932007

 城ある町亡き友の町水草生ふ

                           大野林火

ある町は日本の町の代名詞。小さな出城まで入れると日本中城ある町、または城ありし町だ。城があれば堀があり、春になると岸辺に水草(みぐさ)が繁茂し、水面にも浮いている。生活があればそこに友も出来る。どこに住む誰にでもある風景と思い出がこの句には詰まっている。鳥取市と米子市に八年ずつ住んだ。鳥取市は三十二万五千石。市内の真ん中に城山である久松山(きゅうしょうざん)がどっしりと坐っている。備前岡山からお国替えになった池田氏が城主で、池田さんが岡山から連れてきた和菓子屋が母の実家だった。五、六歳の頃から、お堀に毎日通って、タモで泥を掬ってヤゴを捕った。胸まで泥に浸かって捕るものだから、危険だと何度叱られたかわからない。小学校三年生のときそこで初めてクチボソを釣った。生まれて初めての釣果であるクチボソの顔をまだ覚えている。中学と高校は米子。米子には鳥取の支城の跡があり、城址公園で同級生と初めてのデートをした。原洋子さん可愛かったなあ。その後原さんは歯科医になったらしいが、早世されたと聞いた。僕のお堀通いを叱責した父も母も今は亡く、和菓子屋を継いだ叔父も叔母も近年他界した。茫々たる故郷の思い出の中に城山が今も屹立している。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


March 1032007

 古稀といふ春風にをる齢かな

                           富安風生

が子供の頃、二十一世紀は未来の代名詞だった。2003年生まれの鉄腕アトムに夢中になり、ある日ふと、その頃自分は何歳なんだろう、とそっと引き算してみると、2003−1954=49。四十九歳、親の年齢を上回る自分の姿を想像することは難しく、その遠い未来に漠然と不安を覚えた記憶がある。思えば、老いることを初めて意識した瞬間。ひたすら今を生きていた小学生の頃のことだ。「わたしの作品に“老”が出はじめたのは、長い俳歴のいつごろであったか。」雑文集『冬うらら』(富安風生著)のあとがきは、この一文で始まっている。作者は、まだ老の句を詠むには早すぎる頃から、「人間の、自分自身の、まだ遠い先の老ということに、趣味的な(といってもいいであろう)関心を抱いて」概念的な老の句を作っては、独り愉しんだり淋しがったりしていたという。「人生七十古来稀」を由来とする古稀は、最も古くからある長寿の賀である。そして、古稀を迎えてからは、それまで遊びであった老の句に実感が伴うようになり、「おのずからため息の匂いを帯びてきた。」のだと。春風にをる、の中七は、泰然自若、悠々と達観した印象を与える。しかし、老が思いの外実感となって来たことに対する、かすかな戸惑いをさらりと詠みたい、という心持ちも働いているのではないか。それは、人間的で正直な心持ちと思う。「この世に“思い残すことはない”などと語る人の言葉をきくと、何かそらぞらしく、ウソをついているなと思えてならんのです。(中略)自分自身のために、死ぬるまで、明日を待ち楽しむ気持で、一日一日の命を大事にしたいというだけの事です。」昭和五十四年、九十三歳で天寿を全うされた作者八十一歳の時の言葉である。引用も含めて『冬うらら』(1974・東京美術)所載。(今井肖子)


March 1132007

 起きよ起きよ我が友にせんぬる胡蝶

                           松尾芭蕉

代詩が昆虫をその題材に扱うことは、そう多くはありません。かすかに揺れ動く心情を、昆虫の涙によって表したものはありますが、多くの場合「虫」は、姿も動きも、人の観念を託す対象としてはあまり向いていないようです。片や、季語がその中心に据えられた「俳句」という文芸においては、間違いなく虫はその存在感を存分に示すことができます。季節の中の身動きひとつでさえ、俳人の掌に掬い取られて、時に感情の深部にたどり着くことがあります。掲句、「ぬる」は「寝る」の意味。虫の中でも、「蝶」の、夢のように舞うすがたは、地べたを這う虫とは違った印象をあたえてくれます。芭蕉が「起きよ起きよ」と二度も声を掛けたくなったのも、色彩そのもののような生き物に、弾むこころが抑えられなかったからでしょう。「我が友にせん」というのは、単に話し相手になっておくれということでしょうか。あるいは蝶に、夢の中身を教えてくれとでも言うつもりでしょうか。一人旅の途中で、目に触れたかわいらしい生き物に、つい声を掛けたと思えば、ほのぼのとした情感を持つことができます。ただ、見方によっては、これほどにさびしい行為はないのかもしれません。一人であることは、それが選び取られたものであっても、ちょっとした心の揺らぎによって、だれかへもたれかかりたくなるもののようです。『芭蕉物語』(1975・新潮社)所収。(松下育男)


March 1232007

 春泥をわたりおほせし石の数

                           石田勝彦

語は「春泥(しゅんでい)」。春のぬかるみのことだ。ぬかるみは、べつに春でなくてもできるが、雪解けや霜解けの道には心理的に明るい輝きが感じられることもあって、春には格別の情趣がある。明治期に松瀬青々が定着させた季語だそうだ。ぬかるんだ道をわたるのは、なかなかに難儀である。下手をすると、ずぶりと靴が泥水にはまりこんでしまう。だからわたるときには、誰しもがほとんど一心不乱状態になる。できるだけ乾いている土を選び、露出している適度の大きさの石があれば慎重に踏んでわたる。よほど急いででもいない限り、そうやって「わたりおほ」した泥の道を、つい振り返って眺めたくなるのは人情というものだろう。作者も思わず振り返って、わたる前にはさして意識しなかった「石の数」を、あらためて確認させられることになった。あれらの石のおかげで、大いに助かったのである。なんということもない句のように思えるかもしれないが、こういう小さな人情の機微を表現できる詩型は、俳句以外にはない。この種の句がつまらないと感じる人は、しょせん俳句には向いていないのだと思う。『秋興以後』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


March 1332007

 流木は海の骨片鳥帰る

                           横山悠子

鳥が北へと帰る頃になると、わたしの暮らす東京の空にも、黒いすじ雲のような鳥たちの姿を見ることができる。桜の便りと雪の便りが同時に届く今年のような妙な気候では、出立の日を先導するリーダー鳥はさぞかし戸惑っていることだろう。長い旅路は海に出てからが勝負である。空に渡る黒いリボンは、大きくターンするたびに翼の裏の真っ白な羽を見せ、手を振るようにきらきら光りながら、海の彼方へと消えていく。幾千の命を生み、また幾千の命の終焉を見てきた母なる海にとっては、海原の上を通うちっぽけな鳥影も、進化を重ね、わずかに生き延びることができた血肉を分けたわが身であろう。小さな鳥たちの影を、また落としていった幾本かの羽毛を、波はいつまでも愛おしんで包み込む。打ち上げられた流木を波が両手で転がし、惜しむように洗ってゆく。海は大きな揺りかごとなって、いつまでもいつまでもその身を揺らす。太古から存在する海、大樹であった流木の過去、鳥たちの苦難の旅など、掲句はひと言も触れずに、すべてを感じさせている。こうした俳句の読み方は、時としてドラマチックすぎると思われるだろう。しかし、ひとつの流木を見て作者に浮かんだイメージは、十七文字を越えて読者の胸に飛び込んでくる。一句の持つ力にしばし身をまかせ、去来する物語りに身をゆだねることもまた俳句を読む者の至福の喜びなのである。『海の骨片』(2006)所収。(土肥あき子)


March 1432007

 襟あしの黒子あやふし朧月

                           竹久夢二

ちろん女性のしろい襟あしにポチリとある黒子(ほくろ)である。本人は気づいているのだろうが、本人の目には届きにくい襟あしに忘れられたように、とり残されたようについているほくろは、この場合、美人の条件の一つとして設定されていると言っていい。まだ湿気を多く含んだ春の夜にぼんやりかすむ朧月は、満月や三日月のようなくっきりとした美しさとは別の妖しさがしっとり感じられる。夜空ににじんでいるような朧月と、襟あしにポチリと目立つほくろの取り合わせは憎い。そんな絵が夢二にあったような気がする。明治から大正にかけて、美人画で一世を風靡した夢二ならではの、女性に対する独自のまなざしがある。目の前にあるほくろと、夜空に高くかすむ月。両者を結ぶ「あやふし」は、ほくろを目の前にした作者のこころがたち到っている「あやふさ」でもあるだろう。その情景はいかようにも設定し、解釈できよう。美人が黒猫を抱いている代表作「黒船屋」も妖しい絵だけれど、夢二は浪漫的な美人画ばかりでなく、子供の絵もたくさん残した。詩や俳句も少なくない。夢二の絵そのものを思わせる「舞姫のだらり崩るゝ牡丹かな」という句もある。そんな大人っぽい妖しい句があるいっぽうで、「落書を消しにゆく子や春の月」という健気な句もある。『夢二句集』(1994)所収。(八木忠栄)


March 1532007

 あたらしき鹿のあしあと花すみれ

                           石田郷子

らがなの表記と軽やかなア音の韻律がきれいだ。春の鹿と言えば、その語感から柔らかでふくよかな姿を思い浮かべるが、「美しい秋の鹿とくらべてきたなく哀れなものが春の鹿である」(平井照敏『新歳時記』)と歳時記の記述にある。実際のところ、厳しい冬を乗り越えたばかりのこの時期の鹿はやつれ、脱毛したみじめな姿をしているようだ。調べてみて自分の思い込みと現実のずれに少しとまどいを感じた。鹿といえば観光地や動物園にいる人馴れした姿しか思い浮かばないが、掲句の鹿は容易に人前に姿を見せない野性の鹿だろう。「あたらしき」という形容に、朝まだ早き時間、人の立ち入らぬ山奥を風のように駆け抜けて行った生き物の気配と、土に残るリズミカルな足跡を追う作者の弾む心が感じられる。そこからイメージされる鹿の姿は見えないだけにしなやかで神秘的な輪郭を持って立ち上がってくる。山に自生するすみれは長い間庭を彩るパンジーと違って、注意していないと見過ごしてしまうぐらい小さくて控えめな花。視線を落として「あしあと」を追った先で出会った「花すみれ」は鹿の蹄のあとから咲き出たごとく、くっきりと作者の目に映えたのだろう。シンプルな言葉で描き出された景から可憐な抒情が感じられる句である。『現代俳句一〇〇人二〇句』(2001)所載。(三宅やよい)


March 1632007

 初蝶や屋根に子供の屯して

                           飯島晴子

常の中で見たままの風景から感動を引き出すことは、簡単そうに見えて実は一番難しく、それゆえ挑戦しがいのある方法だと僕は思う。一番というのは、俳句のさまざまの手法と比較しての話。僕等は社会的動物だから、先入観を脳の中にインプットされてここに立っている。どんなシーンには感動があって、どんなシーンが「美しい」のか。ホントにホントの「自分」がそう感じ、そう思っているのだろうか。先入観の因子が「ほらきれいだろ」と脳髄に反射的に命令を出してるだけのことじゃないのか。そもそもラッキョウの皮を剥くみたいに、インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか。こういう句を見るとそう思う。屋根に子供がいるだけなら先入観の範疇。あらかじめ準備されたフォルダの中にある。猫が軒を歩いたり、秋の蝶が弱々しかったりするのと同じ。要するに陳腐な類想だ。しかし、「屯して」と書かれた途端に風景の持つ意味は様相を変える。屋根に子供が屯する風景を誰があらかじめ脳の中に溜めておけるだろう。四、五人の子供が屋根の上にいる。考えてみれば、現実に大いに有り得る風景でありながら、である。一日に僕等の目の前に刻々と展開する何千、何万ものシーンから僕等はどうやればインプットされた以外のシーンを切り取れるのか。子規が気づいた「写生」という方法は実はそのことではないのか。この方法は古びるどころか、まだ子規以降、端緒にすら付いていないと僕は思うのですが。『八頭』(1985)所収。(今井 聖)


March 1732007

 春愁や心はいつも過去に向く

                           湖東紀子

という字には、草木と同じように秋は人の心も引き締まる、という意味があるという。春愁は、明るい春を迎えているのに、どことなくもの憂い気分になること、とあり、誰もが思い当たる感覚であろう。この、どことなくもの憂い、という感じを一句にするのは難しい。愁いの度が過ぎると、春愁とは言えなくなってくるし、本当にもの憂い気分の時には俳句もうかばない。この句の作者は、春の明るい日差の中で小さくため息をついている。その視線は遠く、彼方の記憶、思い出は濾過されて優しい。過去に向く心には、せっぱ詰まった悩みがあるわけではない。こういう気分になった時そういえばいつもあの頃のことを思い出してるな、と少し離れて自分を見て、ああ、こういう気持が春愁なのかな、と思い当たったのだろう。昨日、今井聖さんの鑑賞文に、「インプットされた先入観の皮を剥いで、ホントの自分を見出す試みを僕等はしているのだろうか」とあった。本当にそうだ、自戒もこめて。この句の他にいくつか、春愁、の句を読んでいて、何かもやもやした気持になったのは、いかにも春愁らしいでしょ、春愁の感じをとらえているでしょ、という作者の先入観が見えたからなのかもしれない。この句の「いつも」は、心がむく過去が、時代なのか場所なのか人なのかはわからないけれど、何か具体的な大切な思い出という印象を与えている。そしてそんな心の動きをとらえて、明るさを失わない愁いが自然に詠まれている。確かに、心が未来に向いている愁いは、もう少し深刻だろう。『花鳥諷詠』(2000年8月号)所載。(今井肖子)


March 1832007

 春雨や火燵の外へ足を出し

                           小西来山

が家の高校生の娘たちは、火燵(こたつ)のある生活を知りません。正月に実家に行ったときに、物珍しそうに何度か入ってみたことがあるだけです。江戸期に詠まれたこの句が、そのまま実感として理解できる時代も、もうそろそろ終りに近づいているのかもしれません。暖炉とか、火鉢とか、火燵とか、その場所へ集まらなければ暖をとれない、ということの意味が、ようやく理解できるようになってきました。みんなが足を運び、顔を並べることの温かさは、なにも暖房器具から発せられる熱だけのせいではなかったのです。家を濡らして朝からえんえんと雨が降り続いています。障子の向こうから聞こえてくる音は、もういきものを冷やすものではありません。とはいうものの、部屋のなかに火燵が置いてあればつい足を入れてしまいます。もう火燵をしまう時期だと思ってから、月日はだいぶ経ちました。そのうちに寒い日がまたあるかも知れないという言い訳も、もうききません。でも、火燵をしまうのに特別な締め切りがあるわけのものでもなし、そのうちに気が向けばしまうさ、と自分のだらしなさを許してしまいます。それにしてもこの陽気では、火燵はさすがに熱く、たまらなくなって足を引き抜きます。火燵の前に両足をたてて膝を抱え、なんとも窮屈な姿勢で、季節に背中を押されているのです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 近世俳人』(1980・桜楓社)所載。(松下育男)


March 1932007

 惜春のサンドバッグにあずける背

                           夏井いつき

語は「惜春(春惜しむ)」。「暮の春」「行く春」と大差はないが、詠嘆的な心がことば自体に強くこもっている。一種物淋しい悼むような情を含む、と手元の歳時記の解説にある。そういえば、木下恵介に『惜春鳥』という男同士の物淋しくも切ない友情を描いた作品があった。おそらくは、夕暮れに近い日差しが窓から差し込んでいるボクシング・ジムである。トレーニングに励んでいた若者が、束の間の休息をとるために、今まで叩きつづけていたサンドバッグにみずからの背をそっとあずけた。よりかかるのではなく、あくまでも「そっと」あずけたのだ。その様子には、さながら相棒のようにサンドバックをいとおしむ気持ちがこもっており、心地よい疲労を覚えている若い肉体には、充実感がみなぎっている。そんな光景を目撃したか、あるいは思い描いた作者は、その若者の心身のいわば高まりのなかに、しかし早くも僅かに兆しはじめている衰亡の影を見て取ったということだろう。そのことが行く春への思いを、もっと物淋しい「惜春」の情にまで引き上げたと言える。この「惜春」と「サンドバッグ」の取り合わせは、なかなかに秀抜な絵になっていて、私はすぐに、ちばてつやの描いた名作『あしたのジョー』の一場面を思い出したのだった。『伊月集「梟」』(2006)所収。(清水哲男)


March 2032007

 さびしくはないか桜の夜の乳房

                           鈴木節子

年もまた花見やら桜祭りやらと何かと気ぜわしい季節となった。満開をやや過ぎた頃の桜が一途に散る様子が好きなので、風の強い日を選んで神田川の桜並木を歩く。毎年恒例の勝手気ままな個人的行事だが、散った花びらが神田川の川面を埋め、それがまるでどこまでも続く桃色の龍のような姿となっていることに気づいてから、この龍と会うのは、たったひとりの時でしかいけないような気がしている。梶井基次郎の『櫻の木の下には』や、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を引くまでもなく、満開の桜には単なる樹木の花を越えた禍々しいまでの美しさがある。桜や蛍など、はかないと分かっている美しいものを見た夜は、誰もが心もとない不安にかられるのだろう。女の身であれば、我が身の中心を確かめるように乳房に手をやってみる。しかし、そんな夜は、確かにこの手がわが身に触れているのに、そこにあたたかい自分の肉体を見つけることができないのだ。指から砂がこぼれてしまうような不安に耐えかね、寝返りを繰り返せば、乳房は右に溢れ、左に溢れ、まるで胸に空いた大きな穴を塞ごうとしているかのように波を打つ。咲き満ちていることの充足と恐怖が、女に寝返りを打たせている。『春の刻』(2006)所収。(土肥あき子)


March 2132007

 つくしが出たなと摘んでゐれば子も摘んで

                           北原白秋

会では、こんな句に点は入らないだろう。八・六・五という破調のリズムはあまりしっくりとこない。春になった! やあ、つくしが出た。摘もう、摘もう!――そんなふうに弾むこころをおさえきれずに野に出て、子どもたちと一緒になってつくしを摘む。つくしが出た、それを摘む人もたくさん出た。春がきた。そんなワクワクした情景を技巧をこらすことなく、構えることなく素直に詠んでいる。「うまい俳句を作ろう」などという意識は、このときの白秋には皆無だったにちがいない。いや、わざと「俳句」のスタイルにはとらわれまい、と留意したとさえ思われる。童謡を作るときのこころにかえっているようだ。白秋はもちろん定形句も作っているが、自由律口語の句も多い。「土筆が伸び過ぎた竹の影うごいてる」「初夏だ初夏だ郵便夫にビールのませた」「蝶々蝶々カンヂンスキーの画集が着いた」等々。俳人諸氏は「やっぱり詩人の句だ」と顔をしかめるかもしれないけれど、この自在さは愉快ではないか。われも子も弾んでいる。スタイルよりも詠みたい中身を優先させている。白秋は室生犀星を相手に、次のように語っている。「発句は形が短いだけに中身も児童の純真が欠かせない。発句にはそれと同時に音律の厳しさがある。七五律はちょっと甘い。五七律をこころみてみたい」。白秋の口語自由律俳句には、気どらない「児童の純真」が裏付けされている。ところで、白秋のよく知られた詩「片恋」全六行は、それぞれ五・七・五となっている。「あかしやの金と赤とがちるぞえな。/かはたれの秋の光にちるぞえな。/片恋の薄着のねるのわがうれひ。/(後略)」『白秋全集38』(1988)所収。(八木忠栄)


March 2232007

 菜の花や向こうに葬の厨見え

                           河原珠美

の花の向こうに厨(くりや)の戸が開け放たれており、喪服を着た女たちが入れかわり立ちかわり働いている様子が見えるのだろう。家で葬儀を営むことの少なくなった都会では隣近所が総出で通夜、葬儀を手伝う光景はあまり見かけなくなった。地縁の濃い田舎では、村の講や班が喪の準備を整え、悲しみにくれる家族に代わって食事の用意をするのは近所の女達の役割だった。地方によっては通夜、葬儀、法事の献立も決まっていると聞く。冠婚葬祭があるごと使えるよう公民館や共同倉庫に必要分の什器が保管されている村もある。そんな葬儀のしきたりや付き合いも村をささえる世代が高齢化していくにつれ希薄になっていく一方だろう。とは言え、弔問客へ簡単な食事を出したりお茶の用意をしたりと、葬儀の手伝いに女の力は欠かせない。「厨見え」の言葉に鯨幕を張り巡らした葬の表側と違う家の裏側の忙しさが想像される。畑の菜の花越しにちらりと目に留めた喪の家の厨を描いているのだから、作者とこの家とのかかわりは薄いのかもしれない。少し距離をおいて描かれているだけに、食を作る日常と、死との対比が菜の花の明るさにくっきりと照らし出されているように思える。『どうぶつビスケット』(2002)所収。(三宅やよい)


March 2332007

 燈を遮る胴体で混み太る教団

                           堀 葦男

季の句。映像的処理は遠近法の中で行われている。そういう意味ではこれも「写生」の句だ。まあ、「太る」の部分は観念ではあるけれど。オウム真理教の事件はまだ記憶に新しい。麻原彰晃が選挙に出ていた頃、同僚の高校講師が、オウムの教義に感心したと話していたのを思い出す。「宇宙の気を脊椎に入れると浮遊できるってのは説得力あるんですよ」この人、英語を教えてたけど、自分で修業して僧侶の資格を取った真面目を絵に描いたような人だったな。俳句はあらゆる「現在」を視界に入れていい。百年経っても変わらない不変の事象を詠もうとする態度はほんとうに普遍性に到る道なのだろうか。一草一木を通して森羅万象を詠むなんて、それこそ胡散臭い宗教の教義のようだ。「現在」のうしろに普遍のものを見出そうとするならまず「現在」に没入する必要がある。その時、その瞬間の「状況」すなわち「私」に拘泥しない限り時代を超えて生き抜いていく「詩」は獲られない。五十年以上前のこの作品が今日的意味を持って立てる所以である。そのとき季語はどういう意味を持つのだろうか。「写生」と季語とは不可分のものだろうか。子規の句の中の鶏頭や糸瓜が一句のテーマであったかどうかを考えてみればわかる。この句、「燈を遮る胴体で混み」の「写生」の角度が才能そのもの。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


March 2432007

 輪を描いてつきゆく杖や彼岸婆々

                           河野静雲

岸明けの今日。手元の歳時記の彼岸の項には、この気候のよい時に彼岸会(ひがんえ)と称し、善男善女は寺院に参詣し、祖先の墓参をする、とある。また、彼岸、といえば春彼岸をさし、秋のそれは、秋彼岸、後の彼岸、という。彼岸婆々、は、ひがんばば、であり、彼岸会に来る信心深いお婆さん達、というところか。歳時記の彼岸詣(ひがんまいり)の項にあったこの句は、句集『閻魔』によると昭和八年の作。句集には他に〈腰の手のはだか線香や彼岸婆々〉〈みぎひだり廊下まちがへ彼岸婆々〉〈駄々走り来て小水の彼岸婆々〉など、彼岸婆々の句が多く見られる。作者は、時宗の僧職におられたということなので、どれも実際の彼岸会での光景を詠んだものだろう。掲句は、法要が終わって帰って行く姿である。足腰はもちろん、疲れもあって目もしょぼしょぼしているのか、探りながら杖をついているのだろう。それを後ろから、じっと見つめている作者の眼差しは温かい。生き生きとした描写の数々は、ときにおかしみを伴うが、その根底には、さまざまな苦労を乗り越えて生きてきた彼女達の怒りや涙をも包みこむ愛情が感じられる。それは、僧侶という立場を越えた、人としてのものだろう。ふと、彼岸爺とは言わないものか、と思い読み進めると〈ふところにのぞける経や彼岸翁〉とある。彼岸翁(ひがんおう)か、なんだか高尚な感じだが、つまらなく思えてしまった。いずれにせよ、善男善女とおおらかなご住職とそこに生まれる俳句、それほど遠い昔ではないのだけれど。『閻魔』(1940)所収。(今井肖子)


March 2532007

 遅き日のつもりて遠きむかしかな

                           与謝蕪村

語は「遅き日」、日の暮れが遅くなる春をあらわしています。毎年のことながら、この時期になると、午後6時になってもまだ外が明るく、それだけでうれしくなってきます。この「毎年」というところを、この句はじっと見つめます。繰り返される月日を振り返り、春の日がつもってきたその果てで、はるかなむかしを偲んでいます。「日」が「積もる」という発想は、今の時代になっても新鮮に感じられます。蕪村がこの発想を得た地点から、日本の詩歌がどこまでその可能性を伸ばすことができたかと、つくづく考えさせられます。叙情の表現とは、しょせん引き継がれ発展するものではなく、あくまでも個人の感性の深さに頼ってしまうものかと思ってしまいます。「つもる」という語から、微細な埃が、春の日の中をきらめいて落ちる様子を思い浮かべます。間違いなく日々は、わたしたちを単に通過するのではなく、丁寧に溜(た)められてゆくようです。冊子のように重ねられた「遅き日」をめくりながら、蕪村がどのような感慨をもったのかについては、この句には描かれていません。読む人それぞれに、受け取り方は違ってくることでしょう。静かに通り過ぎて行った「日」も、あるいは激しい感情に揺れ動いた「日」も、ともに「むかし」にしまわれた、二度と取り出せない大切な「時」の細片なのです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 与謝蕪村』(1984・桜楓社)所収。(松下育男)


March 2632007

 重箱に鯛おしまげて花見かな

                           夏目成美

語「長屋の花見」の連中が知ったら、仰天して腰を抜かしそうな句だ。重箱に入りきらない大きな鯛を、とにかく「おしまげて」詰めたというのだから豪勢な酒肴である。かたや長屋の連中は、卵焼きの代りに沢庵、蒲鉾の代りに大根のこうこという粗末さだ。酒ももちろん本物ではなく、番茶を煮出して水で割ったものである。作者の成美は江戸期の富裕な札差(金融業)であり、家業のかたわら独学で俳諧をつづけ、江戸の四大家の一人と称された。一茶のパトロンとしても知られた人物だ。句からうかがえるように、当時の大金持ちの花見はさぞや豪勢だったに違いない。落語に戻れば、上野に出かけた貧乏長屋の連中は、大家に何か花見らしいことをやろうじゃないかと言われ、一句ひねらされるハメになってしまった。そのクダリを少々。勝「大家さん、いま作った句を書いてみたんですが、こんなのぁどうでしょう」大家「おぅ、勝っあん、できたかい? おぉ、お前さん、矢立てなんぞ持って来たとは、風流人だねぇ。いや、感心したよ、どれどれ『長屋中……』、うんうん、長屋一同の花見てぇことで、長屋中と始めたところは嬉しいねぇ。『長屋中 歯を食いしばる 花見かな』え? なんだって? この『歯を食いしばる』てぇのはいったい何なんだい?」勝「なーに、別に小難しいこたぁねぇんで、あっしのウソ偽りのねぇ気持ちをよんだまでで……まぁ、早い話が、どっちを見ても本物を呑んだり食ったりしてるでしょ。ところがこっちは、がぶがぶのぼりぼり、あぁ、実に情けねぇ、と思わずバリバリッと歯を食いしばったという……」へえ、おあとがよろしいようで。柴田宵曲『俳諧博物誌』(岩波文庫)所載。(清水哲男)


March 2732007

 あふむくやはるおほぞらのうつぶせに

                           柚木紀子

年、手書きの機会はめっきり減っているが、どうしても書き取りたいと思わせる句がある。作者と同じ字面をなぞることで、身体のすみずみまでしっかりゆきわたる感触を味わうことができるからだ。掲句も丹念に書き写し、その景を存分に堪能した一句だ。大地に仰向きで寝転び、無防備に両手両足を投げ出すとき、まるで青空がうつぶせになって覆い被さってくるようだと思う。唇のかたちの春の雲がやわらかに流れ、風が髪をなぶり、陽が頬を撫でる。ああ、今、春の空に誘われているのだと気づく。なんと優雅になんと雄々しい誘惑だろう。空を「うつぶせ」にしたことによって命を与え、ある種の異類婚姻譚を感じさせる。ギリシャ神話でゼウスは黄金の雨に姿を変え、ダナエの元に訪れ、身ごもらせたのだった。明日からなにもかもが変わってしまうような予感に揺さぶられながら、作者もまたためらうことなく二本の腕を大空に向かって差し出すのだろう。青空としなやかな白い腕とのコントラストが息を飲むような美しさで迫ってくる。『ミスティカ』(2004)所収。(土肥あき子)


March 2832007

 干されある君の衣に触れて春

                           ペール・ヴェストベリィ

本とスウェーデン両国初の俳句アンソロジー『四月の雪』から選んだ。原句の直訳は「通りすがりになでた/あなたのスカート/乾す綱の上」(舩渡和音訳)。これを清水哲男(日本側選者)が上掲のように季語を入れて翻案した。作者は1933年生まれの男性としかわからない。春の陽が燦々と降るなかに干されている衣(スカート)に、通りすがりに気持ちよくさらりと触れたというのだ。触れることによって春を今さらのように実感している。健やかな春の陽と風に、「わたし」も「君の衣」もまるでスキップでもしているようなリズム感があふれている。「君」だから、ガールフレンドのスカートだろうか。奥さんか娘さんのスカートでもかまわない。いやらしさは微塵もない。むしろ微笑ましい。ここには陽射しが貴重な北欧の春がある。素直な春の喜びがしなやかに表現されている。原詩に季語はないけれど、ここはやはり「春」こそぴったり。同書の前書きによると、スウェーデンでは1950年代から本格的な句作が始まった。季語は定められていないという。オン・デマンド出版による本書には、日本とスウェーデンの俳句がそれぞれ100句ずつ収められている(スウェーデン語訳と日本語訳付き)。俳句が今や、洋の東西を問わず盛んであることは改めて言うまでもない。この作者のもう一句「水桶の水に浮かべて春の月」には、江戸情趣さえ感じられる。『四月の雪』(2000)所収。(八木忠栄)


March 2932007

 手枕は艪の音となる桜かな

                           あざ蓉子

(ろ)の水音と桜の取り合わせが素敵だ。広辞苑によると、舟を漕ぎ出すときに使う艪の掌に握って押す部分を「腕」水をかく部分を「羽」と呼ぶらしい。そういえば艪を左右に広げて舟を漕ぎ進む格好は羽根を広げて空をゆく鳥の姿を思わせる。とはいっても左右均等に力を入れて艪を扱うのはなかなか難しく、非力な漕ぎ手が艪を漕ぐと前には進まず、ぐるぐる同じ場所を回りかねない。公園のボートであろうと、思い通りに進むのは難しい。掲句は桜の木の下に手枕をして寝転がって桜を見ているうち、夢うつつの不思議な気分になっている状態を表しているのだろう。もしくは桜を見ているうちに眠くなって人声が遠くなっていく様子を表しているのかもしれない。いずれにしても居眠りをする「舟を漕ぐ」や熟睡の状態の「白川夜船」といった眠りにまつわる言葉が句の発想の下敷きにあるかもしれないが、そんな痕跡はきれいに消されている。むしろ「手枕」が「艪の音」になるという、一見唐突な成り行きを感覚的に納得させる手がかりとして、これらの言葉への連想を読み手へ誘いかけてくるようである。肘を曲げて頭の下に置く手枕が艪になり、夢心地の不思議な場所へと連れ出されてゆく。最後に「桜かな」と大きな切れで打ちとめたことで、夢は具体的な景となって立ち現れる。艪の水音と桜と夢。青空に光る桜は虚と実が交差する異界への入り口なのかもしれない。『ミロの鳥』(1995)所収。(三宅やよい)


March 3032007

 きびしい荷揚げの荷に頬ずり冬の汗して投票に行かない人ら

                           橋本夢道

句や文学の名に「プロレタリア」の形容を冠する意味はあきらかである。文学に対する政治の優位をはっきりと言っていて、後者の「正しかるべき在り方」の遂行のために前者が存在するという明解な価値観である。これはつまらないと僕は思う。方法としてのリアリズムの効果は認めるが、社会底辺の労働が「必ず美しく正しく」描かれるのは、これはリアリズムというよりは労働ということの「意味」を社会的解説的に問うているということではないか。政治スローガンの戯画化にどれほどの文学性があろうか。「橋本夢道」の一般的評価は別にして、この句は特定の党に投票しなさいと声を張り上げているわけではない。投票日が来ても、その日の日銭を稼ぐのに切羽詰っていて投票所に行く時間がない人たちがたくさんいる。社会変革に踏み出す前にその日のパンをどうするかの問題。ストライキで電車を動かさない現場の人たちを働く仲間として支援できるか。職場に行けない自分が迷惑を蒙ったとしてストを非難するのか。デモ隊と現場で対峙する警官への憎悪と、彼らの個々の「人間性」への理解をどう折り合いをつけるのか。この句のリアルは「荷に頬ずり」と、この人たちを正しいとも間違っているとも言わないところ。現実の瞬間を動的に把握している点において特定の党派の意図など入り込む隙もない。この句の持つ意味をもうひとつ。自由律とは大正期はこんな自由なバリエーションが存在した。尾崎放哉の出現があって、それ以降はみんな放哉調をまねて行く。放哉調が自由律の代名詞になるのである。初期のこういうオリジナルな自由律と比較すれば、山頭火ですら放哉のものまねに見えてくる。谷山花猿『闘う俳句』(2007)所載。(今井 聖)


March 3132007

 手は常に頭上にかざせ夜の桜

                           相原左義長

年、とある俳句大会の観客席に居た。募集句、当日入選句表彰、講評と進んでゆく。最後に、選者数名が壇上に並び、シンポジウムが始まり、そこに相原氏も並んでおられた。司会進行役の、「俳句の楽しさはどんなところと思われますか?」との質問に氏は、「私は、俳句を楽しいと思ったことはありません」と、一言。特に語気を強めるわけでもなく、むしろゆるやかで訥々とした調子であった。それまで、なんとなくぼんやり座っていた私は、一気に目が覚め、あらためて壇上の堂々としたお姿を確認したのだった。「確かに俳句は楽しいばかりではなく、生み出す苦しみもありますね」という方向に話は流れていったが、そういう意味ではない気がした。その後、〈ヒロシマに遺したまゝの十九の眼〉の一句が裏表紙に書かれた句集『地金』を拝読、ご自身の戦争体験など少し知り得た次第である。掲句、桜は満開、すでに散り始めている。闇の中に白く浮かびあがる桜の木の下にいて、えも言われぬざわざわとした不安感を感じたことは確かにある。まるで、今散るための一年であったかのように降り続く花の闇で、立ちつくしたことも。作者も、そんな闇にいて、どこか心がかき乱される思いなのか。その思いに立ち向かうように、落ちてくる花びらのなめらかな感触を遮るように、手は常に頭上にかざせ、と叙している。その命令形の強さが、桜の持つ儚さと呼応して、人の心のゆらぎを自覚させ、切ない。散りゆくことそのものがまた、遠い記憶を呼び起こし、詠まずにはいられなかったのかもしれない。『地金』(2004)所収。(今井肖子)




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