東京は快晴ですが、かなり冷え込んでいます。午前7時現在で、まだ氷点下1度ほど。(哲




2007ソスN2ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2522007

 紙風船紙の音してふくらみぬ

                           伏見清美

風船といえば、まず思い浮かべるのは、掌ではねて幾度も空へ打ち上げられる図です。その図から、未来への希望や願い事、あるいは空の大きさへと連想はつながります。この句が新鮮に感じられるのは、そういった誰しもが持つ感覚ではなく、もっと手前の視点から風船を描いているからです。季語は風船、やわらかく膨らむ春です。作者は、空に打ち上げられる前の段階に目を留めます。三日月形の、折りたたまれた色鮮やかな平面が、じょじょに立体へと変化して行く過程を描こうとしています。それも見た目ではなく、「紙の音して」と、聴覚を持ち出すところは、なるほど見事と思います。この句を読めば皆、耳の奥に、紙が自分の身を広げてゆくときの、伸び上がるような音を聞くはずです。空へ飛び上がる前に、紙風船はまず、自分自身の中に空を広げます。紙風船に顔を近づけて、思い切り息を吹き込んでいるのは、風船のように頬の柔らかな幼児でしょうか。玄関には富山の薬売りが坐って、大きな風呂敷の結び目をほどいています。紙風船は素敵に胸をときめかすおまけでした。母親の後ろで、紙風船がいつもらえるかと待っている子供の姿が、思い出の中にはっきりと見えます。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


February 2422007

 たんぽぽに立ち止まりたる焦土かな

                           藤井啓子

んぽぽ、と声に出すと、やはりその「ぽぽ」の音は、日常の日本語にはない不思議な響きだ。春の野原の代表のような、なじみ深い花の名前だから一層そう感じるのだろうか。それが〈たんぽゝと小聲で言ひてみて一人〉の星野立子句や、〈たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ〉の坪内稔典句を生むのかとも思う。その名前の由来には諸説あるようだが、花を鼓に見立てて、「たん・ぽんぽん」という擬音から来ているという説など興味深い。野原いっぱいに咲く明るさにも、都会のわずかな土に根付いて咲く一輪にも、色といい形といい、春の太陽が微笑んでいる。掲句のたんぽぽは、おそらく二、三輪だろう。たんぽぽの明るさに対して、下五の、焦土かな、は暗く重い。焦土と化した原因は、戦争のようにも読めるが、作者は神戸在住、この句が詠まれたのは1995年の春。焦土の原因は、阪神・淡路大震災である。昨日まで目の前にあった日常の風景が、何の前触れもなく突然失われてしまう天災は、戦争とはまた違った傷を残すのかもしれない。たんぽぽの黄は、希望の春の象徴であり、その色彩を黒々とした土がいっそうくっきりと見せている。中七と下五の間合に、深い悲しみがある。「ああ生きてをり」と題された連作は〈春立ちぬ春立ちぬああ生きてをり〉で締めくくられている。「協会賞・新人賞作品集」(1999・日本伝統俳句協会編)所載。(今井肖子)


February 2322007

 時計屋の時計春の夜どれがほんと

                           久保田万太郎

句という土俵をこんなに広くみせることのできる俳人はめったにいない。俳句は難しい。季題を用い、その本意を意識し、類想はないか、切れ字は的確か、切れは多すぎないか、一七音は余らぬよう、足らざるなきよう。さまざまの条件を意識し、それらをみずからの表現に課すたびに句は硬直化し、理想的な細部を寄せ集めたあげくまったく個性のない合成写真の顔のような作品ができあがる。そこに陥らぬよう意識して、大らかに作ったように見せかけようとすると余計ドツボにはまる。一時、若手と言われる世代でも、大正時代の俳句の大らかさに学ぼうなどというテーマが流行ったが、知的に繊細な技術を駆使して「大らかさ」を出そうとするのはピストルで戦艦を狙うのと同じかもしれない。時代が違うから、社会的存在である人間自体が違う。現代には現代の感性があり、今の感性に沿った今の文体が必要なのだ。この句、切れは二つ目の「時計」のところ。「春の夜」は微妙に下句につながる。「どれがほんと」は口語。破調でも独自のリズムがあり、口語でも季題の本意は崩さない。こんな「かわいい」句を明治二十二年生まれの人に作られたひにゃ今の「かわいい」はどう作りゃいいんだよお。「俳句現代・読本久保田万太郎」(2001年3月号)所載。(今井 聖)




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