午後から出版記念会。乾杯の音頭をとることになっている。そんなトシなのです。(哲




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February 0322007

 入学試験子ら消ゴムをあらくつかふ

                           長谷川素逝

日二月三日は節分、暦の上では今日まで冬。一方、この句の季題、入学試験は春季、虚子編歳時記では、入学の傍題で四月のページにある。しかし、私が勤務する学校も含め、現在東京の私立中学の入学試験の日程は、二月一日から三日に集中している。それゆえ、たいてい採点が終わってヘトヘトになって豆を撒く羽目になるのだ。私の担当教科は数学なので、入試では算数を採点するが、消しゴム使用率が高い教科のひとつではないかと思う。日常の定期試験でも、点数をつけながらめくっていくと、必ず消しゴムのかすが挟まった答案が何枚かある。たいてい、途中で行き詰まって焦っているわけで、白紙部分が多い。それでも一生懸命考えている顔を思い浮かべ、複雑な気持ちでそのかすをぱらぱらと払い、時には勢い余って破れた答案に裏からテープを貼る。ましてや入学試験の場合、相手は小学六年生、たいてい十歳前後から塾に通っている。消しゴムのかすが挟まった、白紙部分の多い答案の見知らぬその子は、中学受験算数とはどうにもそりが合わなかったのだ、気の毒である。長谷川素逝(そせい)は、旧制甲南中学、高等学校に勤務していたので、入学試験監督をしていての一句と思われる。大試験、受験子、などと言わずに、入学試験(の)子ら、と日常語で表現したことで臨場感が増すと共に、消ゴム、という具体物に焦点を当てたことにより、彼等の表情をも見せている。『ホトトギス虚子と100人の名句集』(2004・三省堂)所載。(今井肖子)


February 0222007

 雪の夜の波立つ運河働き甲斐

                           藤田湘子

の夜、都市部を流れる人工の水路をぼうっと見つめる。運河は別に都市部でなくてもいいが、「労働者」のイメージには或る程度の喧騒が必要だ。この句、働き甲斐があるとも無いとも言っていない。そもそも働くということ、そこに甲斐を求めるということはどういうことなのかと、ぼうっと考えている句のように僕には思える。労働が、権力への奉仕でも、搾取のお先棒でもなく、「生の具現」としてある社会を目指せとマルクスは言ったけど、今はそんな図式はもうひからびた発想ということになっている。本当にそうだろうか。資本家とプロレタリアートの対立図式がカムフラージュされても、世界中に貧困や戦争は満ちている。この句、湘子さんが三十代の頃の作品らしい。だとすると、高度経済成長の波の只中で労働が善であり美徳であった時代。そこから思うと「働き甲斐」は、働き甲斐が「ある」と取った方が良さそうだが、ニートや引き籠りや鬱病や自殺や高齢者切り捨ての現状に当てはめると「働き甲斐」自体の意味を問うているというふうに読んでみるのも意義なしとしない。「ああ、働き甲斐って何なんだろう」自分なりの答も出せないまま虚ろな目が運河に降り込む雪を見つめる。生きること、働くことへの懐疑、疲労、諦観。「ぼうっと」がこの句のテーマだ。平畑静塔『戦後秀句2』(1963・春秋社)所載。(今井 聖)


February 0122007

 鴨沢山呼んであります来ませんか

                           ふけとしこ

は普段でも目にする鳥だが、1月から4月にかけて越冬のためシベリア付近から飛来するという。マガモ、オナガ、コガモ、同じ鴨でもよく見ると首の長さや身体の大きさに違いがあることがわかる。春近い陽射しを受けて鴨達の羽根がきれいに光っている。池に群れている鴨は誰かに呼ばれて来ているわけではないが、こう書かれてみると鴨好きのあなたのために作者が集めてくれたみたいだ。こんな俳句が載った吟行案内のハガキを受けとったら、何を置いてもいそいそと出かけそう。例えば男の子がこの句の案内を見れば、レストランに可愛い女の子達が肩をぶつけあいながら座っている場面を想像するかもしれないし、狩猟好きのおじさんなら鉄砲をかついですぐさま出掛けて行きそうだ。読み手の立場で楽しい想像がいくらでも広がっていく。このふくらみは呼びかけの間の小休止が切れとして効果的に効いているからだろう。そして「鴨」は生活に密着したところで様々な成語になっているので、読み手の連想によって多義的な表情を見せることができる。動植物に親しい作者は、彼らの生態とともにその名前が多彩なイメージを生み出す秘密を知っているようだ。「仏の座光の粒が来て泊まる」『ふけとしこ句集』(2006)所収。(三宅やよい)




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