仕事の関係で、生活のリズムが変わってきました。慣れるまでに時間がかりそう。(哲




2007ソスN1ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2612007

 蓮枯れて大いなる鯉どに入りぬ

                           水原秋桜子

原秋桜子が、定期的に粕壁(現春日部)に足を運んだのは昭和五年からの三年間。知己である医師の依頼を受けて月二回出張診療に行くことになる。当時粕壁中学(現春日部高校)教員仲間で句会をやっていた加藤楸邨たちは「ホトトギス」に出ていた秋桜子のエッセイでこのことを知り、秋桜子の診療日に押しかけて指導を頼んだ。以後、診療が終わると秋桜子のグループは粕壁の古利根川や庄内古川を吟行して句会を行ったのである。秋桜子の「ホトトギス」離脱が同六年七月。その三ヶ月後の「馬酔木」十月号に、昭和俳句史上最大の「事件」となった反「ホトトギス」の論文「『自然の真』と『文芸上の真』」が載る。秋桜子著『高濱虚子』に、「革命」前夜の動きが詳細に書かれている。診療後の庄内古川を吟行したあと、鰻屋に向う途中で楸邨に尋ねられた秋桜子は「僕は近いうちに『ホトトギス』をやめるかもしれない」と打ち明ける。楸邨は「一度決意された以上はしっかりなさらなければならない」と応ずる。どは竹を編んで筒状にした川魚を取る仕掛け。川底に沈めて魚を誘い込む。古利根川や庄内古川でよく見られた風景であり、楸邨も当時の句に多く詠んでいる。昭和七年のこの作、どに生け捕られた大きな鯉は「ホトトギス」だったのかもしれぬ。『新樹』(1933)所収。(今井 聖)


January 2512007

 絶頂の東西南北吹雪くかな

                           折笠美秋

が降れば単純に嬉しい地域にしか住んだことのない私に吹雪への恐怖はない。その凄まじさについて「暖国にては雪吹を花のちるさまに擬したる詩作詠歌あれど、吾国(北越)にては雪吹にあふものは九死に一生」と『北越雪譜』に記載がある。横須賀出身の美秋も吹雪の激しさに縁が薄かったろうから、経験からではなく言葉で描きだされた心象風景だろう。四方さえぎるもののない頂上に登り詰めた末、進むことも退くこともできぬまま真っ白な世界に閉じ込められて方角を見失う。絶景を約束された場所で吹雪に封じられる逆説が映像となって立ち上がるのは叙述が「かな」の強い切字で断ち切られているから。東京新聞の記者として第一線で活動していた美秋は筋萎縮性側索硬化症(ALS)に倒れ7年の闘病生活を送った。唇の動きや目の瞬きで妻に俳句を書き取らせ、身動きの出来ぬ病床で俳句を作り続けたという。句集の最後は「なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため」の句で終っている。掲載句も病床から発表されたものらしい。言葉と言葉の連結で俳句世界を作り上げることにこだわった作者にとって、自分の俳句が境涯から語られることは不満かもしれない。しかし、彼の病気を考慮にいれても、背景から切り離してもなおこの句が生きるのは選ばれた言葉にそれだけの強靭さが備わっているからだろう。『君なら蝶に』収録『虎嘯記』抄(1984)所収。(三宅やよい)


January 2412007

 鉄瓶に傾ぐくせあり冬ごもり

                           久保田万太郎

ごもりは「冬籠」とも書く。雪国ならば、雪がどっさり降り積もり、雪囲いをすっかり終わった薄暗い家のなかで、炬燵にもぐりこんで冬をやりすごす。もさもさと降る牡丹雪。ときに猛烈な吹雪。雪国の人々はかつて、たいていそんな冬にじっと堪えしのんでいた。もちろん「冬ごもり」の舞台は雪国に限らない。いずれにせよ、冬は寒気が人の動きを鈍くしてしまう。昨今は、暖房や除雪のやり方がすっかり進化して、生活スタイルが「冬ごもり」などという季語を空文化したようにも感じられる。ここで個人的な好みを言わせてもらえば、「冬ごもり」という言葉の響きに対する私の愛着は深い。生活形態を離れて、心情としての「冬ごもり」にこだわっているということかもしれない。この季語が滅びない限り、俳句の冬も大丈夫(?)。そもそも「冬ごもり」という言葉は「万葉集」の枕詞の一つであり、本来は「冬木茂(も)る」の意味だったとか。「鉄瓶」という言葉もその存在も、私たちの日常生活から次第に遠いものになりつつあるけれど、火鉢(これも遠いものになりつつ・・・・)の燠の上に五徳(これも遠い・・・・)を置いて、その上に鉄瓶を載せて湯を沸かす。三脚の五徳の上で、鉄瓶はなぜかすわりがよくない。「傾(かし)ぐくせ」とは五徳のせいなのか鉄瓶のせいなのか、いつ載せてもピタリとうまく決まらない。そのことに神経質にこだわっているのも、冬ごもりという動きの少ない神妙な生活形態のせいなのだろう。繊細な発見が、冬ごもりをますます深く籠らせてくれるような気さえする。さすが「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」と名句を詠んだ人の細やかさが、ここでも感じられる。万太郎は自分の句については「余技」と言い、「かくし妻」とも言ったそうだ。うーん、うまいことを言ったものだ。「かくし妻」なればこその微妙な味わいが掲出句にもにじんでいる。万太郎が急死した年に刊行された句集『流寓抄以後』(1963)所収。(八木忠栄)




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