防衛「省」発足。「あれよあれよ」のつづく日本。主権在民、これだけは忘れちゃならない。(哲




2007ソスN1ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1012007

 新年の山重なりて雪ばかり

                           室生犀星

句が多い犀星の俳句のなかで、掲出句はむしろ月並句の部類に属すると言っていいだろう。句会ではおそらく高点は望めない。はや正月も10日、サラリといきたくてここに取りあげた。新年も今日あたりともなれば、街には本当の意味での“正月気分”などもはや残ってはいない。年末のクリスマス商戦同様に、躍起の商戦が勝手な“正月”を演出し、それをただ利用しているだけである。ニッポンもここまで来ました、犀星さん。世間はせわしない日常にどっぷりつかっていて、今頃「明けましておめでとうございます」などと挨拶しているのは、場ちがいに感じられる。生まれた金沢というふるさとにこだわった犀星にとって、「新年」と言えば「雪」だったにちがいない。彼には新年の山の雪を詠んだ句が目につく。「新年の山見て居れば雪ばかり」「元日や山明けかかる雪の中」等々。雪国生まれの私としても、今頃はまだのんびりとして、しばし掲出句の山並みの雪を眺めていたい気持ちである。ここで犀星の目に見えているのは、もちろん雪をかぶった山々ばかりだけれど、山一つ一つの重なりのはざまには、雪のなかに住む人たちの諸々の息づかい、並々ならぬ生活があり、一律ではないドラマも新しい年を呼吸しているだろう。白一色のなかで、人はさまざまな色どりをもった暮しを生きている。そこでは赤い血も流され、黒いこころも蠢いているだろう。そうしたことにも十分に思いを及ばせながら、あえて「雪ばかり」と結んでいる。作者はうっとりと、重なっている雪の山々を眺めているだけではない。山の重なりは雪景色に映し出された作者の内面、その重なりのようにも私には思われる。「犀星は俳句にはじまり俳句に終った人である」と句集のあとがきで室生朝子は書いている。『室生犀星句集・魚眠洞全句』(1979)所収。(八木忠栄)


January 0912007

 獅子頭はづし携帯電話受く

                           馬場公江

まや日常的な風景となった携帯電話や携帯ゲーム機であり、自らもその恩恵にあずかってはいるが、その景色のどこかに違和感を求めることで、過ぎし日の正しい姿を忘れないでいようと思う気持ちがある。それを具体的に何と取り合わせ、共通する違和感を引き出すかという方向が、現在の俳句の世界の携帯電話やパソコン機器に対する視線になっているようだ。幼い時分、獅子舞とは「おししがきたー」という広報役の子供の声で往来に飛び出すと、緑の胴幕のなかでふたりつながりの獅子が顎をがくがくさせて踊り、ぽかんと見ている子供の頭を厄払いに順に噛んでいくものだった。げらげら笑う子供や泣きさけぶ赤ん坊まで、実ににぎやかなお正月ならではの時間が流れたものだ。掲句では、おそらく獅子舞が一段落した後、獅子頭の部位を担当していた者がおもむろに頭を脱ぎ、携帯電話を受けたのだ。次の予定などの事務連絡だろうが、興奮さめやらぬさなかにいる方にとってはまことに興醒めである。もしかしたら、獅子頭をはずしたのちの姿も、かがやく茶髪の青年かもしれない。こんなところにまで進出しているのか、と思うと同時に、日本の津々浦々で携帯電話を耳に当てるさまざまな人の姿を思い、なまはげや恐山のいたこまでがケータイで連絡を取り合うような図も思い描いてしまうのだった。現状に違和感を感じるということは、それだけ過去を長く持つことでもある。やれやれと思う心のどこかで、自分に向かって「ごくろうさん」とつぶやいている。「狩」(2007年1月号)所載。(土肥あき子)


January 0812007

 成人の日の総身に釦かけ

                           大澤ひろし

支度を整え、これから成人式に出かけようというところだろう。成人の日の句は多いが、新成人当人が詠んだ句は珍しい。いつごろの句かわからないが、「総身に釦(ぼたん)かけ」とあるから、作者が着たのは詰襟の学生服だろう。となると、昭和三十年代くらいの作句だろうか。私の頃も、男はほとんど学生服で出席した。懐かしや。普段でもむろん釦はみなかけるのだけれど、かけ方は無造作だ。しかし、今朝は違う。晴れの場に出るとあって、とくに念入りに確認するようにしてかけたというわけだ。既にコートを着ているのであれば、その釦もきっちりと……。現代の若者ならば、特にていねいにネクタイを結ぶといったところか。昔の若者の純な気持ちも良く出ていて、晴れやかな気合いのこもった佳句である。ところで最近、政府与党から成人年齢を十八歳に下げようという声があがっている。共産党も以前から主張しているが、そう簡単に賛成するわけにはいかない。国際的に見ると、たしかに十八歳で成人という国が多い。だから下げようというのも変な話で、日本は日本流で行くべきだ。これからの日本社会のことを考えると、十八歳の成人には権利よりも多くの重い義務がかぶさってきそうだからだ。現今の風潮からすれば、そのなかには兵役の義務が含まれてくる可能性もあるのだから、若者よ、飲酒喫煙の自由などの目先のニンジンにはくれぐれも騙されないように。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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