昨日は箱根駅伝とライスボウルのTV観戦で日が暮れました。さて、今日から平常心に。(哲




2007ソスN1ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0412007

 初夢や耳深くして人の波

                           谷さやん

の中の風景にも思えるが、現実に作者がいるのは雑踏の中だろう。身動きの出来ない賑わいに身を揉まれつつ、数日前に見た初夢をぼんやりと思い出している。「耳深くして」という表現から、連れもおらず一人で下を向いて人波に揺られている情景が想像できる。初詣なら、境内にぎっしり詰まった参拝の列が移動するたび身体ごと前へ押し出されてゆく。列についている人達の声がすぐ近くで話しているのに遠くから聞こえてくるように思えるのは自分の想いに沈んでいるからだろうか。その雰囲気は目覚めのとき、雀の声や新聞配達のバイクの音などが夢の底に滑り込んできて、ゆっくり現実に浮上してゆく感じとどこか似ている。「初夢」は元日、または正月二日に見る夢。吉凶を占う意味もあり、普段夢に無頓着な人も気になるところだろう。曖昧模糊とした夢の輪郭は思い出そうとしても、もろく消え去ってしまう。夢を辿りつつ夢に漂っているわたしと、雑踏の只中にあるわたし。現実と夢との境目があるからこそ「耳深くして」と、感覚の内部に入り込む表現が生きてくるのだろう。この言葉が「初夢」「人の波」と異質な空間を結びつけ、句に幻想的な味わいを醸し出しているように思う。『逢ひに行く』(2006)所収。(三宅やよい)


January 0312007

 人去つて三日の夕浪しづかなり

                           大伴大江丸

旦からは身内をはじめ友人、同僚などが年始で集まってくる。酒が入り、おせち料理をつつきながら話がはずむ。去年はああだった、こうだった、今年はああだろう、こうだろう、こうあれかし・・・・などと、いっぱしの楽観論や悲観論がもっともらしくいりまじる。まことにもって恒例の無責任事始め。まあ、それもいいか、正月だもの。三ケ日だもの。テレビではタレント・ゲーノー人どもが視聴者そっちのけで、われ先にと終日こけつまろびつのバカ丸出しの大騒ぎ。笑えませぬ。フツーの人間には、シラフじゃとても三日と堪えられませぬ。さて、ブラウン管のこっち側、子ガメ孫ガメ寄り集まっての無礼講のにぎわいも、さすがに三日目の夕刻ともなるとくたぶれて、一人去り二人去り、浪がひくようにさっさかひいて行く。「ハレ」の浪もようやく平常の静けさに戻る。「ケ」の生活リズムが戻ってくる。「ハレ」から「ケ」へ、その淋しいようなホッとするような気持ちは、けしていやなものではない。「夕浪」とは各家々個有の「浪」でもあるだろう。大江丸は大阪の飛脚問屋主人・大和屋善兵衛の俳号。蓼太の門人として享和・寛政年間には、大阪における実力者だったと言われる。大江丸が活躍した江戸の世も、二百年余のちの今の世も、「三日」の風情は本質的にあまり変わっていないのかもしれない。近年は元旦から営業している豪儀なデパートもあり、私の近所の巨大ショッピングセンターは、元旦から初荷を謳って営業を開始している。そんなに稼ぎなさんな。三ケ日くらい仕事を忘れてのんびりと・・・・など、世間さまは許してくれないらしい。現に行き場のない若い衆が、ウンカのごとくちゃらちゃらと群がっている。その昔、夏目漱石というオジサンはこう詠んだ、「一人居や思ふことなき三ケ日」。大江丸の「夕浪」も漱石の「一人居」も、「ハレ」から「ケ」への移行である。さて・・・・これからふらりと裏手の東京湾の「夕浪」でも、しみじみ眺めてこようっと。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


January 0212007

 初湯にて赤子うら返されてをり

                           酒本八重

ん坊の身体はとらえどころなく、とめどなくやわらかい。そのぐにゃぐにゃした小さな形を「うら返す」というやや乱暴な言葉で、一層の愛情を表現し得た。初湯とは、銭湯の営業が正月2日からだったことに由来し、「初湯に入ると若返る」などといわれ、朝から繁盛していたようである。今年最初の湯に浸かり、顔なじみと裸の挨拶をすることは、なんとも風呂好きの日本人らしい習わしである。しかし、現代の句である掲句は、ベビーバスか、またはごく一般的な家庭の風呂でのことだろうが、心身を清く健やかに保つ初湯の謂れを大切に、赤ん坊のための適度な加減へと細心の注意をほどこされているものに違いない。あたたかい湯をまんべんなくかけられ、うら返されている当人は、相変わらず無防備にきょとんとした様子である。慈しみに包まれ誕生した者だけが持つ、うっとりと安心しきったその表情こそ、なにものにもかえられない宝であろう。手のひらに乗せられ、つやつやと濡れて輝く桃色の命が、次の世代を引き継いでいく。ひとつの家族の系譜とは、こうした手応えを持って、まさしく手から手へ渡されていくものなのだろう。酒本八重『里着』(2005)所収。(土肥あき子)




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