2007N1句

January 0112007

 校舎なき校歌の山や初景色

                           七沢実雄

日に変わらぬ景色ではあるが、元日に見る景色(初景色)はどこか違う。新しい年がはじまったという意識、そこから来る清新の気が、見慣れた景色を新しく塗り替えるからとでも言うべきか。眺めているうちに、作者は遠くの山が、いまは廃校となってしまった学校の校歌に詠み込まれていたことを思い出している。つづいて、一緒に学び遊んだ友人たちや先生とのことどもを懐かしんでもいるのだろう。自分はずっとこの過疎の地で暮してきたが、多くの友だちは都会に出ていった。音信不通の友人も少なくない。「みんな、元気にしてるかな」。私の通った故郷の小学校も中学も廃校になってしまっている。小学校は明治期にできた伝統のある学校だったけれど、過疎には耐えきれず、ついに無くなったことを知らされたときにはショックだった。もはや校歌もよくは覚えていないが、山の名前はあったのかなかったのか。あったとすれば元日の今日、故郷の友人の誰かは、作者と同じ心境でその山なみを見ているかもしれない。近年の新しい校歌は、土地の名や山や川を詠み込むことを嫌うようだが、それだけ自然との距離が遠くなった証左だろう。啄木ではないが、故郷の山河には圧倒的な存在感がある。貧しい時代に貧しい暮らしを余儀無くされた土地だったけれど、私はそこで育ったことを幸せに思う。故郷の地の諸君、明けましておめでとう。今年も元気でな。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


January 0212007

 初湯にて赤子うら返されてをり

                           酒本八重

ん坊の身体はとらえどころなく、とめどなくやわらかい。そのぐにゃぐにゃした小さな形を「うら返す」というやや乱暴な言葉で、一層の愛情を表現し得た。初湯とは、銭湯の営業が正月2日からだったことに由来し、「初湯に入ると若返る」などといわれ、朝から繁盛していたようである。今年最初の湯に浸かり、顔なじみと裸の挨拶をすることは、なんとも風呂好きの日本人らしい習わしである。しかし、現代の句である掲句は、ベビーバスか、またはごく一般的な家庭の風呂でのことだろうが、心身を清く健やかに保つ初湯の謂れを大切に、赤ん坊のための適度な加減へと細心の注意をほどこされているものに違いない。あたたかい湯をまんべんなくかけられ、うら返されている当人は、相変わらず無防備にきょとんとした様子である。慈しみに包まれ誕生した者だけが持つ、うっとりと安心しきったその表情こそ、なにものにもかえられない宝であろう。手のひらに乗せられ、つやつやと濡れて輝く桃色の命が、次の世代を引き継いでいく。ひとつの家族の系譜とは、こうした手応えを持って、まさしく手から手へ渡されていくものなのだろう。酒本八重『里着』(2005)所収。(土肥あき子)


January 0312007

 人去つて三日の夕浪しづかなり

                           大伴大江丸

旦からは身内をはじめ友人、同僚などが年始で集まってくる。酒が入り、おせち料理をつつきながら話がはずむ。去年はああだった、こうだった、今年はああだろう、こうだろう、こうあれかし・・・・などと、いっぱしの楽観論や悲観論がもっともらしくいりまじる。まことにもって恒例の無責任事始め。まあ、それもいいか、正月だもの。三ケ日だもの。テレビではタレント・ゲーノー人どもが視聴者そっちのけで、われ先にと終日こけつまろびつのバカ丸出しの大騒ぎ。笑えませぬ。フツーの人間には、シラフじゃとても三日と堪えられませぬ。さて、ブラウン管のこっち側、子ガメ孫ガメ寄り集まっての無礼講のにぎわいも、さすがに三日目の夕刻ともなるとくたぶれて、一人去り二人去り、浪がひくようにさっさかひいて行く。「ハレ」の浪もようやく平常の静けさに戻る。「ケ」の生活リズムが戻ってくる。「ハレ」から「ケ」へ、その淋しいようなホッとするような気持ちは、けしていやなものではない。「夕浪」とは各家々個有の「浪」でもあるだろう。大江丸は大阪の飛脚問屋主人・大和屋善兵衛の俳号。蓼太の門人として享和・寛政年間には、大阪における実力者だったと言われる。大江丸が活躍した江戸の世も、二百年余のちの今の世も、「三日」の風情は本質的にあまり変わっていないのかもしれない。近年は元旦から営業している豪儀なデパートもあり、私の近所の巨大ショッピングセンターは、元旦から初荷を謳って営業を開始している。そんなに稼ぎなさんな。三ケ日くらい仕事を忘れてのんびりと・・・・など、世間さまは許してくれないらしい。現に行き場のない若い衆が、ウンカのごとくちゃらちゃらと群がっている。その昔、夏目漱石というオジサンはこう詠んだ、「一人居や思ふことなき三ケ日」。大江丸の「夕浪」も漱石の「一人居」も、「ハレ」から「ケ」への移行である。さて・・・・これからふらりと裏手の東京湾の「夕浪」でも、しみじみ眺めてこようっと。平井照敏編『新歳時記』(1996)所載。(八木忠栄)


January 0412007

 初夢や耳深くして人の波

                           谷さやん

の中の風景にも思えるが、現実に作者がいるのは雑踏の中だろう。身動きの出来ない賑わいに身を揉まれつつ、数日前に見た初夢をぼんやりと思い出している。「耳深くして」という表現から、連れもおらず一人で下を向いて人波に揺られている情景が想像できる。初詣なら、境内にぎっしり詰まった参拝の列が移動するたび身体ごと前へ押し出されてゆく。列についている人達の声がすぐ近くで話しているのに遠くから聞こえてくるように思えるのは自分の想いに沈んでいるからだろうか。その雰囲気は目覚めのとき、雀の声や新聞配達のバイクの音などが夢の底に滑り込んできて、ゆっくり現実に浮上してゆく感じとどこか似ている。「初夢」は元日、または正月二日に見る夢。吉凶を占う意味もあり、普段夢に無頓着な人も気になるところだろう。曖昧模糊とした夢の輪郭は思い出そうとしても、もろく消え去ってしまう。夢を辿りつつ夢に漂っているわたしと、雑踏の只中にあるわたし。現実と夢との境目があるからこそ「耳深くして」と、感覚の内部に入り込む表現が生きてくるのだろう。この言葉が「初夢」「人の波」と異質な空間を結びつけ、句に幻想的な味わいを醸し出しているように思う。『逢ひに行く』(2006)所収。(三宅やよい)


January 0512007

 松過ぎのまつさをな湾肋骨

                           原田 喬

正十三年「ホトトギス」第一回同人に推された原田濱人(ひんじん)は、虚子の許可を得て「ホトトギス」に書いた主観重視の論「純客観写生に低徊する勿れ」を理由に虚子に破門される。「ホトトギス」の同期の飯田蛇笏、原石鼎ら主観派に対する見せしめとしてスケープゴートにされたのだ。早い話が虚子にハメられたのである。その七年前、まだ二人の関係が良好であった頃、虚子は、奈良で教鞭をとっていた濱人宅を尋ね、その時四歳だった濱人の子喬(たかし)を句に詠んでいる。「客を喜びて柱に登る子秋の雨」虚子の句集『五百句』所収のこの句に詠まれた喬は、失意の父とともに郷里浜松で暮す。父は地元で俳句結社「みづうみ」を興し、生涯その指導に当る。父死後、喬は父の跡を継がず加藤楸邨に師事する。喬は1999年没。喬もまた郷里浜松で生涯を終えている。「まつさをな湾」は遠州灘。肋骨(あばらぼね)は、そこに生活の根を置く自己の投影。それはまた父から受け継いだ血と骨格である。句柄はおおらかで素朴。「土に近くあれ」を自己の信条とした。『灘』(1989)所収。(今井聖)


January 0612007

 元旦や新妻その他新しき

                           成瀬正とし

の字は、水平線から太陽が昇ってくるさまを表した象形文字で、元旦は元日の朝をさすという。私は年末の数日を、大きな窓から海しか見えない部屋で、毎朝昇ってくる朝日を見て過ごした。久しぶりに見る海からゆらゆらと赤く昇る太陽は、まさしく生きものであり、動いているのは自分の方かもしれない、と最初に思った人はやはりすごい、とおよそ詩的でないことを考えつつ。残念ながら大晦日に帰京したので、初日の出は狭い空をせわしなく昇って来る太陽を、いつものベランダから見たのだが、それでも元旦に窓を開けて深呼吸する時は新しい気持になる。この句は、昭和二十年代の作。作者は渋谷区に住んでおられたようだが、東京も今より正月らしさのある街だったことだろう。二人で迎える初めてのお正月、二十代のサラリーマンゆえ、さほど立派にしつらえたおせちが並ぶわけではないだろうが、掲句に並んで〈妻ごめに年酒の盃をとりあげて〉とあるので、手料理をはさんで差し向かい、新年の盃を酌んでいる。その幸せ、うれしさが一句になったのだが、やはりどこか照れくさい、その照れくささが、新妻その他、という中七にほどよく表れている。同時に、新年の決意を新たにしている、純粋で衒いのない若々しさも感じられ、松もとれかかっている今日ではありますが、年頭の一句に。『笹子句集第一』(1963)所載(今井肖子)


January 0712007

 人日の雨青年をおびやかす

                           原 裕

も日も、どちらも深く、かけがえのない意味をもつ語ですが、それを組み合わせた言葉があるとは知りませんでした。「人日」とは、「ひとひ」ではなく「じんじつ」と読みます。不思議な響きをもった単語です。「1月7日」を意味します。手元の歳時記によりますと、「中国漢代に、6日までは獣畜を占い、7日に人を占ったことからの名」とあります。獣畜を先に置き、人をその後に置く順番には、やさしい手つきが感じられます。人を特別な存在と見ずに、生きとし生けるもののうちにふくめるという気配りを感じます。歳時記には、「この日は、人に対する刑罰を避けた」ともありました。「人」がことさらに「人」であることを意識する日なのかもしれません。その喜びと悲しみが同時に、人を襲ってくるのです。1月7日という歳の若い雨は、冷たく青年をぬらします。人の日に、青年は何におびえているのでしょうか。「人」であることの根源に向かった恐れなのでしょうか。さて、年が変わってもう7日が過ぎました。明後日からは通常の仕事に戻る方も多いことでしょう。「人の日」とは、正月気分から普通の自分に戻るための日なのかもしれません。温かなおかゆでも食べて、しゃきっとして、明日からの長い「人の日々」に備えましょう。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


January 0812007

 成人の日の総身に釦かけ

                           大澤ひろし

支度を整え、これから成人式に出かけようというところだろう。成人の日の句は多いが、新成人当人が詠んだ句は珍しい。いつごろの句かわからないが、「総身に釦(ぼたん)かけ」とあるから、作者が着たのは詰襟の学生服だろう。となると、昭和三十年代くらいの作句だろうか。私の頃も、男はほとんど学生服で出席した。懐かしや。普段でもむろん釦はみなかけるのだけれど、かけ方は無造作だ。しかし、今朝は違う。晴れの場に出るとあって、とくに念入りに確認するようにしてかけたというわけだ。既にコートを着ているのであれば、その釦もきっちりと……。現代の若者ならば、特にていねいにネクタイを結ぶといったところか。昔の若者の純な気持ちも良く出ていて、晴れやかな気合いのこもった佳句である。ところで最近、政府与党から成人年齢を十八歳に下げようという声があがっている。共産党も以前から主張しているが、そう簡単に賛成するわけにはいかない。国際的に見ると、たしかに十八歳で成人という国が多い。だから下げようというのも変な話で、日本は日本流で行くべきだ。これからの日本社会のことを考えると、十八歳の成人には権利よりも多くの重い義務がかぶさってきそうだからだ。現今の風潮からすれば、そのなかには兵役の義務が含まれてくる可能性もあるのだから、若者よ、飲酒喫煙の自由などの目先のニンジンにはくれぐれも騙されないように。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


January 0912007

 獅子頭はづし携帯電話受く

                           馬場公江

まや日常的な風景となった携帯電話や携帯ゲーム機であり、自らもその恩恵にあずかってはいるが、その景色のどこかに違和感を求めることで、過ぎし日の正しい姿を忘れないでいようと思う気持ちがある。それを具体的に何と取り合わせ、共通する違和感を引き出すかという方向が、現在の俳句の世界の携帯電話やパソコン機器に対する視線になっているようだ。幼い時分、獅子舞とは「おししがきたー」という広報役の子供の声で往来に飛び出すと、緑の胴幕のなかでふたりつながりの獅子が顎をがくがくさせて踊り、ぽかんと見ている子供の頭を厄払いに順に噛んでいくものだった。げらげら笑う子供や泣きさけぶ赤ん坊まで、実ににぎやかなお正月ならではの時間が流れたものだ。掲句では、おそらく獅子舞が一段落した後、獅子頭の部位を担当していた者がおもむろに頭を脱ぎ、携帯電話を受けたのだ。次の予定などの事務連絡だろうが、興奮さめやらぬさなかにいる方にとってはまことに興醒めである。もしかしたら、獅子頭をはずしたのちの姿も、かがやく茶髪の青年かもしれない。こんなところにまで進出しているのか、と思うと同時に、日本の津々浦々で携帯電話を耳に当てるさまざまな人の姿を思い、なまはげや恐山のいたこまでがケータイで連絡を取り合うような図も思い描いてしまうのだった。現状に違和感を感じるということは、それだけ過去を長く持つことでもある。やれやれと思う心のどこかで、自分に向かって「ごくろうさん」とつぶやいている。「狩」(2007年1月号)所載。(土肥あき子)


January 1012007

 新年の山重なりて雪ばかり

                           室生犀星

句が多い犀星の俳句のなかで、掲出句はむしろ月並句の部類に属すると言っていいだろう。句会ではおそらく高点は望めない。はや正月も10日、サラリといきたくてここに取りあげた。新年も今日あたりともなれば、街には本当の意味での“正月気分”などもはや残ってはいない。年末のクリスマス商戦同様に、躍起の商戦が勝手な“正月”を演出し、それをただ利用しているだけである。ニッポンもここまで来ました、犀星さん。世間はせわしない日常にどっぷりつかっていて、今頃「明けましておめでとうございます」などと挨拶しているのは、場ちがいに感じられる。生まれた金沢というふるさとにこだわった犀星にとって、「新年」と言えば「雪」だったにちがいない。彼には新年の山の雪を詠んだ句が目につく。「新年の山見て居れば雪ばかり」「元日や山明けかかる雪の中」等々。雪国生まれの私としても、今頃はまだのんびりとして、しばし掲出句の山並みの雪を眺めていたい気持ちである。ここで犀星の目に見えているのは、もちろん雪をかぶった山々ばかりだけれど、山一つ一つの重なりのはざまには、雪のなかに住む人たちの諸々の息づかい、並々ならぬ生活があり、一律ではないドラマも新しい年を呼吸しているだろう。白一色のなかで、人はさまざまな色どりをもった暮しを生きている。そこでは赤い血も流され、黒いこころも蠢いているだろう。そうしたことにも十分に思いを及ばせながら、あえて「雪ばかり」と結んでいる。作者はうっとりと、重なっている雪の山々を眺めているだけではない。山の重なりは雪景色に映し出された作者の内面、その重なりのようにも私には思われる。「犀星は俳句にはじまり俳句に終った人である」と句集のあとがきで室生朝子は書いている。『室生犀星句集・魚眠洞全句』(1979)所収。(八木忠栄)


January 1112007

 主婦の手籠に醤油泡立つ寒夕焼

                           田川飛旅子

学生の頃、茶色とクリーム色に編み分けられた買物籠を手にお使いに出された。台所の打ち釘に掛けられていた買物籠が姿を消したのはいつごろだろう。八百屋や肉屋を回らなくとも大抵のものはスーパーで買えるようになり、白いポリ袋が買物籠にとって代わった。昭和30年代の主婦達は夕方近くなると、くの字に曲げた肘に籠を提げ、その日の献立に必要なものだけを買いに出た。その籠の中に重い醤油瓶が斜めに入っている。すぐ暮れてしまう寒夕焼の家路を急ぐ主婦。彼女が歩く振動で手籠が揺れるたび、黒い液体の上部が白く泡立つ。何気ない夕暮れの景なのだが、籠の中の醤油の波立ちが強く印象づけられる。調味料を主題にした作品としてよく引用される葛原妙子の短歌に「晩夏光おとろえし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて」(『葡萄木立』所収)がある。妥協を許さぬそのすっぱさで、黄色味を帯びた酢が自らの意思で瓶の中に立っているかのようだ。液体に主体を置いた見方で、酢が普段使いの調味料とは違う表情で現れてくる。飛旅子(ひりょし)の場合は、手籠の中の醤油の泡立ちに焦点を絞り込んだことで、静止画像ではなく映画のワンシーンのような動きが感じられる。細部の生々しい描写から寒夕焼を急ぐ主婦の情景全体をリアルに立ち上がらせているのだ。『現代俳句全集』第六巻(1959)所収。(三宅やよい)


January 1212007

 奥歯あり喉あり冬の陸奥の闇

                           高野ムツオ

安時代に征夷大将軍坂上田村麻呂に攻められた東国の夷(えびす)の首領悪路王は、岩手県の平泉から厳美渓に通じる途上にある達谷窟(たっこくのいわや)に籠って最後まで屈せずに戦い遂に討たれる。悪路王などというおどろおどろしい名を付けたのも錦の御旗を掲げた側。本当は、気は優しくて力持ちの美男子だったかも知れぬ。ドラマの中のキムタクやブラピのように。皇軍の名のもとにマイノリティを「征伐」していった歴史の暗部が陸奥(みちのく)には充満しているのだ。夷やアイヌやインディアンや、その他多くの被征服者の苦しみや哀しみを、「大東亜戦争」に敗れた僕等日本人はようやく痛切に感じることができるようになったのではないか。それまでは世界の「征夷大将軍」たらんとしていたのに。権力の合法的暴力や大国の偽善的エゴは今も世界に満ち満ちている。世界中の「みちのく」の冬の闇の中で、顔を失った口の中の奥歯が呪詛を呟き、頭を吹き飛ばされた喉が今日も叫んでいる。「別冊俳句・現代秀句選集」(1998・角川書店)所載。(今井 聖)


January 1312007

 冬銀河昼間は何もなき山河

                           今橋眞理子

句は兼題句に多い、とよく言われる。兼題として前もって出されると、とにかく集中して向き合うことになるからだろうか。確かに自らを省みても、日々好きに作っている句は作りやすい季題に偏りがちであり、歳時記を読んだつもりでも、兼題として出されて初めて意識する季題もある。この句は、「冬の星」という兼題で作られた一句である。作者の母方の故郷は徳島の四国山地の山の中、夏休みは吉野川で遊び、冬は夜空を眺めるのが楽しみだったという。冬の夜空は明るい星も多く、その光は凍てながら白く冴えている。何光年もの彼方にある星々、今この瞬間に実際に存在している星はこの中にいくつあるのか、そんなことを考えながら引き込まれるように星を見上げていたことだろう。澄みきった山里の漆黒の空に、雲のように細かい星影を流す冬銀河の記憶。「昼間は何もなき」の中七が冬銀河と呼応して、自然のままの山里への郷愁を深めている。「あの時の手の届きそうな夜空が、私にとっての冬の星なのだ思う」という今橋さんの言葉を聞いて、ただ冬の夜空をぼ〜っと眺めて星を探すばかりではだめなのだ、とあらためて感じると共に、上五を「冬の星」ではなく、敢えて「冬銀河」としたことで、情景がくっきりと具体的になっていることにも感じ入った。兼題の力、兼題への取り組み方を考えさせられた一句である。「野分会東京例会」(2006年12月17日)出句五句のうち。(今井肖子)


January 1412007

 人参は赤い大根は白い遠い山

                           辻貨物船

物船忌、1月14日です。新聞記事で辻征夫さんの死亡を知り、急ぎ通夜に向かった日のことを思い出します。もう7年も前のことになります。辻さんとは若いころに、詩の雑誌の投稿欄の選者として、一年間ご一緒したことがあります。投稿の選評が終わった後に、小さな雑誌社の扉を開け、夜の中にすっくと立つ背筋の伸びた辻さんの姿を、今でも思い出します。「貨物船」から降ろされた多くのすぐれた詩は、深い情愛に満ちたものばかりでした。隙(すき)のない詩や小説の「余白」に書き付けられたであろう俳句は、しあわせに力の抜けた場所での創作だったのでしょう。掲句、冬の清新な空気と、ほっとする心持を読むものに与えてくれるものであります。人参、大根ともに、旬の冬が季語です。手元には、細かく切り刻み、酢であえた膾(なます)が、ひざの前に置かれています。その膾へ、そっと差し出す箸の動きを想像します。箸の先には実生活と格闘する辻さんがいて、片手にはウイスキーのコップを持っています。ウイスキーを飲みながら見つめる先には、「創作」の遠い山が見えていたのでしょうか。酔った口からいくらでも出てくる文学談を、若かったわたしは、目を輝かせて聞いていたのでした。「松下君、詩もいいけど、俳句というものも、すごいよ」。辻さんの声が今でも、すぐ近くから聞こえてくるようです。『貨物船句集』(2001)所収。(松下育男)


January 1512007

 女正月帰路をいそぎていそがずに

                           柴田白葉女

語は「女正月(おんなしょうがつ・めしょうがつ)」。一月十五日を言うが、まだこんな風習の残っている地方があるだろうか。昔は一日からの正月を大正月と呼び、男の正月とするのに対して、十五日を中心とする小正月を女の正月と呼んでいた。正月も忙しい女たちが、この日ばかりは家事から解放され、年始回りをしたり芝居見物に出かけたり、なかには女だけで酒盛りをする地方もあったようだ。子供のころ暮した田舎では、小正月を祝う風習はあったとおぼろげに記憶しているが、女正月のほうはよく覚えていない。母にまつわる記憶をたどってみても、松の内が過ぎてから出かけることはなかったような……。我が家に限らず、昔の主婦はめったに外出しないものだった。出かけるとすれば保護者会か診療所くらいのもので、遊びに出るなどは夢のまた夢。田舎時代の母は、おそらく映画などは一度も見たことがなかったはずだ。どこかから借りてきた映画雑誌を読んでいた母の姿を、いま思い出すと、切なく哀しくなってくる。そんな生活のなかで、作者の住む地方には女正月があり、大いに羽をのばした後の「帰路」の句だ。いざ家路につくとなると、日頃の習慣から足早になってしまう。みんなちゃんとご飯を食べただろうか、風呂はわかせたろうか、誰か怪我でもしてやしないか等々、家のことが気になって仕方がない。つい「いそぎて」しまうわけだが、しかし一方では、今日はそんなに急ぐ必要はない日であることが頭に浮かび、「いそがずに」帰ろうとは思うものの、すぐにまた早足で歩いている自分に気がついて苦笑している。こうした女のいじらしさがわかる人の大半は、もう五十代を越えているだろう。世の中、すっかり変わってしまった。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所収。(清水哲男)


January 1612007

 森番に革命の歌山眠る

                           松橋昭久

命とは、国家や社会の組織の急激な変革をいうとある。「革命」という言葉で、血がたぎるような興奮を覚える世代はいつ頃までなのだろう。おそらく、理想に燃えて学生運動に深く関わった世代だろうか。革命に関わり、勝利を手にしたものが幸福を得るとは限らない。掲句では「森番」という、現役や世俗から遠く離れた厭世的な姿が、すべてを象徴している。森番の過去に何があったというのだろう。しかし、彼には繰り返し口にする歌がある、それだけで充分なのだと思い直す。森番は満天の星を背負い、暗く大きな口を開けているような冬の山へ向かって、子守唄を聞かせるようにいつまでも低く歌うのだろう。「山眠る」とは、中国『臥遊録(がゆうろく)』の「冬山惨淡(さんたん)として眠るが如し」を出典に持つ、山の静かに深く眠るような姿を擬人化させた季語だが、ここではじっと無言で森番の歌に聞き入る同志のようなたたずまいがある。たったひとつきり繰り返す革命の歌を思うとき、彼の過去がほんの少しだけ顔を出す。『雪嶺』(2006)所収。(土肥あき子)


January 1712007

 凍つる夜の独酌にして豆腐汁

                           徳川夢声

語は「凍(い)つる」。現在は1月7日までが通常「松の内」と呼ばれるけれど、古くは15日までが「松の内」だった。江戸時代には「いい加減に正月気分を捨ててしまえ」という幕府の命令も出たらしい。大きなお世話だ。掲出句の情景としては、妻が作ってくれたアツアツの豆腐汁に目を細めながら、気の向くままに独酌を楽しんでいる姿と受けとめたい。妻はまだ台所仕事が片づかないで、洗い物などしているのかもしれない。外は凍るような夜であっても、ひとり酌む酒ゆえに肴はあれもこれもではなく、素朴な豆腐汁さえあればよろしい。寒い夜の小さな幸せ。男が凍てつく夜に帰ってきて、用事で出かけた妻が作っておいた豆腐汁をそそくさと温めて、ひとり酌む・・・・と解釈するむきもあろうが、それではあまりにも寒々しすぎるし、上・中・下、それぞれがせつない響きに感じられてしまう。ここは豆腐汁でそっと楽しませてあげたい、というのが呑んべえの偽らざる心情。豆腐のおみおつけだから、たとえば湯豆腐などよりも手軽で素っ気ない。そこにこの俳句のしみじみとした味わいがある。この場合「・・・にして」はさりげなく巧みである。現在、徳川夢声(むせい)を知っているのは50〜60代以降の人くらいだろう。活動弁士から転進して、漫談、朗読、著述などで活躍したマルチ人間。その「語り芸」は天下一品だった。ラジオでの語り「宮本武蔵」の名調子は今なお耳から離れない。渋沢秀雄、堀内敬三らとともに「いとう句会」のメンバーだった。「夢諦軒」という俳号をもち、二冊の句集を残した。「人工の星飛ぶ空の初日かな」という正月の句もある。『文人俳句歳時記』(1969・生活文化社)所収。(八木忠栄)


January 1812007

 寒夜明け赤い造花が又も在る

                           西東三鬼

の頃は本物と見間違うばかりの精巧な造花が多く出回っているが、掲載句の頃と言えば「ホンコンフラワー」と呼ばれた安物のプラスチック造花が巷に売られていた時代だろうか。学校のトイレや洗面所の片隅に打ち捨てられたように置かれている埃っぽい花をしばしば目にした。咲き誇る花の美しさは数日で衰えてしまう。萎んだ花殻を摘んで残りの花を活け直し、最後に始末するまでが人と花のかかわりだとすれば、いつまでも同じ形を保ち続けている花とは何だろう。芯から冷え込む「寒夜」(かんや)が明けても、昨日と同じ場所に赤の造花が、寸分変わらぬ姿でそこに在る。「俳句に説明が要らないといふことは、事物の選択が、すでに充分作者の思念を表明しているからである。」三鬼は述べる。確かに掲載句にも事実だけが書き留められてはいるが、「又も在る」の表現にかすかに作者の気持ちが滲む。その言葉の裏にひそむ彼の心持ちは「もう、うんざり」と言ったところか。戦前、戦後。俳句のために職も生活も擲って奔走しながらも報われることが少なかった三鬼。「わが一生は阿呆の連続ときわまったり」と述懐せねばならなかった三鬼の虚無的な在りようが赤い造花に色濃く投影されているように思える。『変身』(1961)所収。(三宅やよい)


January 1912007

 にはとりを叱りつつ雪掃きゐたる

                           友岡子郷

を採るために飼われ家の周辺に放たれる鶏の風景は少なくなった。卵の価格が安値安定しているためである。戦後の物価の推移の中でもっとも値上がり幅が少ないものに卵と牛乳が入っている。鶏は放牧されると木の上で眠る。ちゃんと空を飛ぶし、個性もある。昔家で飼っていた鶏を手乗りにした。腕を差し出すとちゃんと飛び乗ってくる。もっとも乗られるたびに爪を立てられるので布を巻かないと痛い。最新式のオートメーション化した養鶏場は餌も水も電動で巡ってくる。身動きのできない檻の中で採卵の機械と化し短い一生を終える鶏は悲しい。この句、連体形で止めてあるので、句の意味が上句へと循環する。主語である「誰か」または「我」が省略されているから「ゐたる」はそこに戻るわけである。仮に「掃きゐたり」の終止形で止めると画像の強調度は増すが、「叱る」という動詞の焦点と「掃く」という動詞の焦点のうちの後者が強調されることになる。連体形で止めることによって、作者はふたつの動作の対等な連携と反復性を意図したのである。うっすら積もった雪晴れの朝の鶏は鮮やか。鶏冠の朱が印象的である。叱られながら餌を啄ばむ鶏は幸せである。『葉風夕風』(2000)所収。(今井 聖)


January 2012007

 弦月の弦とけてゐる寒の晴

                           本井 英

を仰がない日はないなあ、とふと思う。朝窓を開けて、出勤の時玄関を出て、通勤電車の中から、職場の窓から、東京の狭い空にも四季の移り変わりと表情がある。勤め帰り、都心のビルに埋もれた夕日に染まる空、駅を降りて、わずかな星や月を探して見上げる空。青く澄んでいるというと、秋の空の印象が強いが、冬、特に年が明けてからの寒中(寒の入から寒明けまで)の空は、強い北風に吹き清められて青く冴えている。弦月(げんげつ)は弓張り月。この句は昨年の作なので、2006年の月のカレンダーを見ると、大寒の二、三日後、下弦の半月が有明の空に見えたと思われる。うすうすと消えてゆく弓形の月、半円の輪郭はほの明るいが、だんだんと空にとけ始めている。空との境目をなくしてゆく月を、全体のイメージではなく、弦という線に焦点をあてて詠み、その月をとかしている空は、大寒過ぎの雲ひとつない青空になりつつある。弦月は場合により季題となり秋季だが、下五の「寒の晴」のくっきりとした強さと広がりから、この句は「寒」の句であろう。一年で最も寒いこの時期だが、今日一月二十日は大寒、また大学入試センター試験初日でもある。あとは春を待つばかり。同人誌『珊』(2006年冬号)所載。(今井肖子)


January 2112007

 木枯や煙突に枝はなかりけり

                           岡崎清一郎

人、岡崎清一郎の句です。季語は木枯らし、冬です。語源は、「木を枯らす」からきているとも言われています。「この風が吹くと、枝の木の葉は残らず飛び散り、散り敷いた落ち葉もところ定めずさまよう」と、手元の歳時記には解説があります。垂直に立つ煙突を、木枯らしは横様に吹きすぎます。煙突を、枝のない木と発想するところから、この句は生まれました。その発想自体は、それほどめずらしいものではありません。しかし、木という言葉と、煙突という言葉の間に、「木枯らし」を吹かせたことで、空を支える三者につながりができ、その言葉の組み合わせが、物語をつむぎだす結果になりました。まるで、煙突にはもともと枝葉があって、木枯らしに吹かれたために、今のような姿になったかのようです。冬空に高くそびえ、寒さに耐える煙突の姿は、たしかにいたいたしくもあります。それはそのまま、コートのポケットに手を入れて冷たい風の中にたたずむ老いた人のようでもあります。かつて、友人や家族という枝葉に囲まれて、遮二無二生きてきた日々を、その人は路上に立って思い返している。と、そこまで読み取る必要はないのかもしれません。しかし、この句を読めば、だれしもの頭の中に、しんとした物語が始まってしまうはずです。『詩のある俳句』(1992・飯塚書店)所載。(松下育男)


January 2212007

 家族八人げん魚汁つるつるつる

                           齋藤美規

語は「げん魚(幻魚)汁」で冬。幻魚は、日本海からオホーツク海の深海に棲息している。「下の下の魚」という意味から「げんげ」がそもそもの呼び名らしいが、昔はズワイガニ漁で混獲されたりしても、みな捨てられていたという。したがって、「げん魚汁」も決して上等の料理ではないだろう。食べたことがあるが、お世辞にも美味いとは言えない代物だった。身は柔らかいというよりもぶよぶよした感じで、骨は逆にひどく硬い。でも、これを干物にすると驚くほど美味くなるという人もいるけれど……。句は寒い晩に、そんな汁を大家族が「つるつるつる」と飲み込むように食べている図だ。大人たちは一日の労働を終えて疲れきっており、大きな椀を抱えるようにして、黙々と啜っている情景が浮かんでくる。ただこの句を紹介している宮坂静生が作者に聞いたところによれば、子供のころに食べた淡泊な味が忘れられないというから、作者自身は味や歯触りを気に入っていたようだ。だが、そういうことを考慮に入れたとしても、この句から浮き上がってくるのは、昔の貧しい家庭の夕食光景だと言って差し支えないと思う。寒い土地で肩を寄せ合うようにして暮している家族の様子が、さながらゴッホの「馬鈴薯を食べる人たち」のように鮮やかに見えてくる。宮坂静生『語りかける季語 ゆるやかな日本』(2007・岩波書店)所載。(清水哲男)


January 2312007

 とどのつまり置いてきぼりや雪兎

                           大木孝子

どのつまりの「とど」とは漢字で魚ヘンに老と書くそうだ。広辞苑では「鯔(ぼら)が更に成長したものの称」とある。出世魚鯔の行き着く先が「とど」という聞き慣れない名前となり、頂点を極めたはずの「とどのつまり」が、どちらかというと思わしくない方向に傾く言葉になっているとは不思議なものだ。掲句は迫力の「とどのつまり」に、悲しみのニュアンスをまとう「置いてきぼり」と続くところで、まるで童話のなかの森をさまよう子供たちのような景色となった。通学途中や旅先で、手なぐさみで作った雪うさぎを持ち歩くことはできないが、かといってそのままぎゅっと押しつぶし、雪玉にして遠くに投げつけるようなことは決してしない。雪うさぎは、手のひらの中でつぶらな瞳を持つ雪の生きものとして生まれたのだ。道中携えることの叶わぬ雪うさぎは、結局そのあたりの一番おだやかな場所にそっと置き去りにされる。そのささやかなうしろめたさが、彼らに永遠の命を灯すのだろう。持ち帰ろうとすれば「置いてけ、置いてけ」と呼ぶ声もどこからか聞こえてきそうな、無垢の世界にしか住むことができない雪の精である。ある冬の日、庭の雪をひと掬いして作った雪うさぎの、あまりの可愛らしさに室内に持ち込み、あろうことかテレビの上に置いて眺めていたら、みるみるうちに白い皿に浮く笹の葉2枚と南天の実2粒という姿となった。そのわずかな色彩がことのほか悲しかった。やはり野に置け雪うさぎ。『あやめ占』(2006)所収。(土肥あき子)


January 2412007

 鉄瓶に傾ぐくせあり冬ごもり

                           久保田万太郎

ごもりは「冬籠」とも書く。雪国ならば、雪がどっさり降り積もり、雪囲いをすっかり終わった薄暗い家のなかで、炬燵にもぐりこんで冬をやりすごす。もさもさと降る牡丹雪。ときに猛烈な吹雪。雪国の人々はかつて、たいていそんな冬にじっと堪えしのんでいた。もちろん「冬ごもり」の舞台は雪国に限らない。いずれにせよ、冬は寒気が人の動きを鈍くしてしまう。昨今は、暖房や除雪のやり方がすっかり進化して、生活スタイルが「冬ごもり」などという季語を空文化したようにも感じられる。ここで個人的な好みを言わせてもらえば、「冬ごもり」という言葉の響きに対する私の愛着は深い。生活形態を離れて、心情としての「冬ごもり」にこだわっているということかもしれない。この季語が滅びない限り、俳句の冬も大丈夫(?)。そもそも「冬ごもり」という言葉は「万葉集」の枕詞の一つであり、本来は「冬木茂(も)る」の意味だったとか。「鉄瓶」という言葉もその存在も、私たちの日常生活から次第に遠いものになりつつあるけれど、火鉢(これも遠いものになりつつ・・・・)の燠の上に五徳(これも遠い・・・・)を置いて、その上に鉄瓶を載せて湯を沸かす。三脚の五徳の上で、鉄瓶はなぜかすわりがよくない。「傾(かし)ぐくせ」とは五徳のせいなのか鉄瓶のせいなのか、いつ載せてもピタリとうまく決まらない。そのことに神経質にこだわっているのも、冬ごもりという動きの少ない神妙な生活形態のせいなのだろう。繊細な発見が、冬ごもりをますます深く籠らせてくれるような気さえする。さすが「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」と名句を詠んだ人の細やかさが、ここでも感じられる。万太郎は自分の句については「余技」と言い、「かくし妻」とも言ったそうだ。うーん、うまいことを言ったものだ。「かくし妻」なればこその微妙な味わいが掲出句にもにじんでいる。万太郎が急死した年に刊行された句集『流寓抄以後』(1963)所収。(八木忠栄)


January 2512007

 絶頂の東西南北吹雪くかな

                           折笠美秋

が降れば単純に嬉しい地域にしか住んだことのない私に吹雪への恐怖はない。その凄まじさについて「暖国にては雪吹を花のちるさまに擬したる詩作詠歌あれど、吾国(北越)にては雪吹にあふものは九死に一生」と『北越雪譜』に記載がある。横須賀出身の美秋も吹雪の激しさに縁が薄かったろうから、経験からではなく言葉で描きだされた心象風景だろう。四方さえぎるもののない頂上に登り詰めた末、進むことも退くこともできぬまま真っ白な世界に閉じ込められて方角を見失う。絶景を約束された場所で吹雪に封じられる逆説が映像となって立ち上がるのは叙述が「かな」の強い切字で断ち切られているから。東京新聞の記者として第一線で活動していた美秋は筋萎縮性側索硬化症(ALS)に倒れ7年の闘病生活を送った。唇の動きや目の瞬きで妻に俳句を書き取らせ、身動きの出来ぬ病床で俳句を作り続けたという。句集の最後は「なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため」の句で終っている。掲載句も病床から発表されたものらしい。言葉と言葉の連結で俳句世界を作り上げることにこだわった作者にとって、自分の俳句が境涯から語られることは不満かもしれない。しかし、彼の病気を考慮にいれても、背景から切り離してもなおこの句が生きるのは選ばれた言葉にそれだけの強靭さが備わっているからだろう。『君なら蝶に』収録『虎嘯記』抄(1984)所収。(三宅やよい)


January 2612007

 蓮枯れて大いなる鯉どに入りぬ

                           水原秋桜子

原秋桜子が、定期的に粕壁(現春日部)に足を運んだのは昭和五年からの三年間。知己である医師の依頼を受けて月二回出張診療に行くことになる。当時粕壁中学(現春日部高校)教員仲間で句会をやっていた加藤楸邨たちは「ホトトギス」に出ていた秋桜子のエッセイでこのことを知り、秋桜子の診療日に押しかけて指導を頼んだ。以後、診療が終わると秋桜子のグループは粕壁の古利根川や庄内古川を吟行して句会を行ったのである。秋桜子の「ホトトギス」離脱が同六年七月。その三ヶ月後の「馬酔木」十月号に、昭和俳句史上最大の「事件」となった反「ホトトギス」の論文「『自然の真』と『文芸上の真』」が載る。秋桜子著『高濱虚子』に、「革命」前夜の動きが詳細に書かれている。診療後の庄内古川を吟行したあと、鰻屋に向う途中で楸邨に尋ねられた秋桜子は「僕は近いうちに『ホトトギス』をやめるかもしれない」と打ち明ける。楸邨は「一度決意された以上はしっかりなさらなければならない」と応ずる。どは竹を編んで筒状にした川魚を取る仕掛け。川底に沈めて魚を誘い込む。古利根川や庄内古川でよく見られた風景であり、楸邨も当時の句に多く詠んでいる。昭和七年のこの作、どに生け捕られた大きな鯉は「ホトトギス」だったのかもしれぬ。『新樹』(1933)所収。(今井 聖)


January 2712007

 切り株はまだ新しく春隣

                           加藤あけみ

本列島概ね暖冬という今年である。寒いのは嫌いだがそうなると勝手なもので、大寒の日、木枯に背中を丸めて、こうでなくちゃとつぶやく。十数センチの積雪で電車は遅れ、慣れない雪掻きで筋肉痛になるとわかっていても、一度くらいは積もってほしいと、これまた勝手なことを思ううち、一月も終わろうとしている。春隣、春待つ(待春)、ともに冬の終わりの季題だが、心情が色濃い後者に比べ、春隣には、まだまだ寒い中に思いがけなく春が近いと感じる時の小さい感動がある。冬晴れの日、木立に吹く風はまだ冷たい。一面の落ち葉、その枯れ色の風景の中、白く光るものが目にとまる。近づくとそれは切り株で、ふれると、まだ乾ききっていない断面には、生きている木の感触が残っている。切り株の、とすれば、その断面がはね返している日差が春を感じさせる。しかし、切り株は、と詠むことで、今は枯れ色のその森の木々すべてに漲っている生命力を感じさせるとともに、切られてしまった一本の木に対する作者の眼差しも見えるようだ。ほかに〈中庭は立方体や秋日濃し〉〈クレッシェンドデクレッシェンド若葉風〉〈石投げてみたくなるほど水澄めり〉などさらりと詠まれていながら、印象深い。『細青(さいせい)』(2000)所収。(今井肖子)


January 2812007

 回りつづけて落とすものなし冬の地球

                           桑原三郎

と星が引き合う力を、孤独と孤独が引き合っていると言ったのは、谷川俊太郎です。地球が回っているのに、自身の表面から何もはがれてゆかないのは、たしかに引力というさびしさによるものなのかもしれません。生きるということは、大地に引っ張り続けられることです。この句の視線はあきらかに、大空を見上げるものではなく、地球を側面から、あるいは鳥の目で見下ろしています。このような乾いた視線を、ためらいもなく作品に提示できるのは、俳句だからの事のような気がします。どんな世界を描いていても、有無を言わさず言葉を切り落としてしまう俳句だからこそ、可能なのではないでしょうか。詠まれている空間の大きさにもかかわらず、わたしはこの句に、なぜかミニチュアの、部屋の中に作られた宇宙のような印象を持ちます。目の前に広がる空間に、地球が浮かび、ガラガラ音をたてながら回っています。目を近づければ、細かな町並みが通っており、しがみつくようにして小さな人々が歩いています。むろん部屋の外は冬。窓をあければ、地球全体に北風が吹き込みます。『生と死の歳時記』(1999・法研)所載。(松下育男)


January 2912007

 新宿のおでんは遠しまだ生きて

                           依光正樹

近、なんとなく涙もろくなってきた自分を感じる。同世代の友人たちにその話をすると、たいていは「俺もだ」と言う。加齢が原因なのだ。この句にも、ほろりとさせられた。通俗的といえばそうであるが、しかし人は生涯の大半を俗に生きる。通俗を馬鹿にしてはいけない。青春期か壮年期か。作者は連夜のように通った新宿のおでん屋を思い出している。それも単におでん屋のことだけではなく、その頃の生活のあれこれが派生して浮かんでくる。そのおでん屋からいつしか足が遠のき、いまではすっかりご無沙汰だ。地理的に遠く離れてしまったのかもしれないが、時間的には明確に遠くなってしまっている。もはや新宿に出かける用事もないし、わざわざ出かけていくほどの元気も失せた。「まだ生きて」とあるから、当時ともに酌み交わした仲間や同僚の何人かは、既に鬼籍に入っているような年齢なのだろう。自分だけがおめおめと生き続けていることが、ふと不思議になったりもする。思い出すという心の動きは、孤独感の反映だ。たとえ子供であっても、そうである。楽しかった新宿の夜。しかも思い出すほどに孤独感は余計に強まり、まだ生きている寂しさは募るばかりなのだが、思い出の魔はとりついたまま離れてくれない。「まだ生きて」は、そんな孤独地獄のありようを一言で提出した言葉だ。身につまされる。「俳句」(2007年2月号)所載。(清水哲男)


January 3012007

 また一羽加はる影や白障子

                           名取光恵

崎潤一郎の『陰翳礼讃』を持ち出すまでもなく、白障子のふっくらとした柔らかい光線の加減こそ、日本人の座敷文化の中核をなすといえよう。障子や襖(ふすま)などの建具が冬の季語であることに驚く向きも多いだろうが、どれも気温を調節し、厳しい寒さの間はぴったりと閉ざし、春を待つものとすると考えやすいかと思う。障子といえば、私のようないたずら者には、影絵遊びや、こっそり指で穴を作る快感などを思い浮かべるが、掲句の障子の影に加わる一羽は、庭に訪れた本物の小鳥だろう。というのは、句集中〈検査値の朱き傍線日雷〉〈十日目の一口の水秋初め〉など闘病の句に折々出会うことにより、仰臥の視線を感じるためだ。しかし、どれも淡々と日々を綴っている景色に、弱々しさや暗さはどこにもない。庭に訪れた小鳥の輪郭を障子越しに愛で、来るべき春の日をあたたかく見守る作者がそこにいる。冬来たりなば春遠からじ。あらゆることを受け入れている者に与えられた透明な視線は、障子のあちら側で闊達に動く影に、自然界の厳しさのなかで暮らす力強い鼓動を読み取っている。純白の障子は、凶暴な自然界と、人工的にしつらえられている安全な室内との結界でもある。『水の旅』(2006)所収。(土肥あき子)


January 3112007

 己がじし喉ぼとけ見せ寒の水

                           安東次男

月五日から節分までの30日間くらいを「寒の内」と呼ぶ。一年間で最も寒さが厳しい季節である。したがって「寒の水」はしびれるほどに冷たく、どこまでも透徹している水。この句がどういう状況で詠まれたかは定かでないが、男たちが数人だろうか、顎をあげ、殊更に喉ぼとけを見せるようにして澄みきった冷たい水を、乾いた喉にゴクゴクと流しこんでいる。喉ぼとけは、たまたまそこに見えていたのだろうが、作者があえて「見せ」と捉えたところにポイントがある。水を飲む音も聴こえてくるようであり、あたかも己を主張するかのように、おのおのの飲み方をしているふうにも見える。とがった「喉ぼとけ」と透徹した「寒の水」の取り合わせは凛然としていて、寸分の弛みもない。いかにも背筋がピンと張った安東次男の句姿である。実際、ご自身も凛としていながら、やさしさのにじむ人柄だった。平井照敏編『新歳時記・冬』には「寒中の水は水質がよいとして、酒を作り、布をさらし、寒餅を作り、化粧水を作る」とある。水道水はともかく、寒中に掬って飲む井戸水のおいしさは格別である。安東次男の句集は、名句「蜩といふ名の裏山をいつも持つ」を収めた『裏山』の他『昨』『花筧』『花筧後』などがある。労作『芭蕉七部集評釈』について、「全部、食卓の上でやった仕事だよ」といつか平然と述懐しておられた。喉ぼとけの句というと、どうしても日野草城の「春の灯や女は持たぬのどぼとけ」という句を想起せずにはいられない。句の情景は対蹠的であり、次男句には男性的色気さえ感じられるし、草城句からは女性のエロチシズムが匂い立ってくるように感じられてならない。『花筧』(1992)所収。(八木忠栄)




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