2006N1231句(前日までの二句を含む)

December 31122006

 年こしや余り惜しさに出てありく

                           立花北枝

うとう2006年も最後の日になりました。首相が変わり、北朝鮮が核を持ち、知事が次々と逮捕され、WBCで日本が優勝しと、さまざまなことがあった2006年も、もうすぐ終了します。やっと慣れてきた2006という数字も、あまり使われなくなり、目にあたらしい2007という文字を、明日からは書くことになるわけです。掲句、その年が終わるのが惜しくて、外を歩きまわってしまうという意味です。江戸時代に金沢の地で刀研ぎ商という職を持った北枝も、大晦日はいつものように朝から、刀に向かっていたのでしょうか。時刻が進むうちに、目は刀の光へ吸い込まれ、見つめる先は、自分という生命のあり方の方へ向かっていったものと思われます。「大切な時」、というものに突き動かされ、急に立ち上がって履物を履き、戸を開けて、ともかくも外の通りに出てきたのでしょう。いつもと違わない町並みに、けれど人々は、武士も町人も、男も女も、確かにこの日の厳粛さを身にまとって通り過ぎて行きます。時の区切り目を迎えるということがみな、切なくもあり、うれしくもあるのです。その気持ちは、平成の世になってもまったく変わらず、句にこめられた生命の厳かな焦りは、今にもしっかりと伝わってきます。残るはあと一日です。年が明ければ、たっぷりとした時間が待っていることはわかってはいても、残されたこの一日を、どのように大切に過ごすかを、わたしも考えてみたいと思います。では、2007年がみなさまにとって、とても良いものになりますように。『角川俳句大歳時記 冬』(角川書店・2006)所載。(松下育男)


December 30122006

 人々の中に我あり年忘

                           清崎敏郎

較的広い、いわゆる居酒屋のような店で飲んでいると、初めは、自分も含めてそこに居合わせた一人一人をくっきり認識しているのだが、酔いがまわって来るにつれ、すべてが独特のざわめきの中に埋没してくる。二度と同じ空間や時間を共有することはない多くの愛すべき人々は、言葉は交わさなくてもお互いに不思議な居心地の良さを作り出すのである。ただの酔っぱらいの集団でしょ、と言われれば否定できないし、静かなところでゆっくり飲むのが好きという向きもあろうが、このざわざわが妙に落ち着くのだ。作者がお酒を好まれたときいて、この句を読んだ時、そんな空間に身を置いて、ふっと我にかえってしみじみとしながらも、ひとりではない自分を感じている、そんな気がした。年忘(としわすれ)は忘年会のことだが、もとは家族や親戚、友人と、年末の慰労をするささやかなものをいったようである。歳時記を見ると、会社などの大人数のものを忘年会と呼び、千原草之(そうし)に〈立ってゐる人が忘年会幹事〉と、いかにも賑やかな雰囲気の一句も見られる。この句も、あるいは一門の納め句座の後の酒宴で、人々とは、共に切磋琢磨した句友なのかもしれない。ただ、年惜しむ、や、年の暮、ではないところで、つい酒飲み的鑑賞になってしまった。御用納めもすんで晦日の今日、連日の年忘にお疲れ気味、という方も多い頃合いか。しかしもう二つ寝れば今度はお正月、皆さま御大切に。「ホトトギス新歳時記」(1996・三省堂)所載。(今井肖子)


December 29122006

 大寒や転びて諸手つく悲しさ

                           西東三鬼

十年ほど前の「俳句研究」で西東三鬼の特集があって、そこで三鬼の代表句一句をあげよという欄に加藤楸邨がこの句を選んでいた。ちなみに山口誓子選の「三鬼の一句」は「薄氷の裏を舐めては金魚沈む」だった。「人間」詠の楸邨、「写生構成」の誓子。二人の俳人としての特徴も選句に現れていて興味深い。一読、三鬼らしくない句である。三鬼作品は、斬新、モダニズム、二物衝撃が特徴。逆の言い方で言えば、奇矯、偽悪、近代詩模倣とでも言えようか。その三鬼が自らの格好悪い瞬間を自嘲気味に詠う。往来で転んで身を衆目にさらしたときの気恥ずかしさと惨めさ。きらきらした言葉のイメージの躍動とは正反対に、人間の愚かさのようなものが示される。三鬼門の俳人三橋敏雄に「雪ふればころんで双手つきにけり」がある。どこかの雑誌の依頼で、師から受け継ぐものの見方があるというような内容の文章を書き、これら二句を並べて鑑賞したら、早速敏雄さんから葉書が届いた。「あの句は僕の方が先です」とあった。作家意識をきちんと持った上で「師事」している一個の俳人の矜持を見た思いであった。『夜の桃』(1948)所収。(今井 聖)




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