2006N1223句(前日までの二句を含む)

December 23122006

 装ひてしまひて風邪の顔ありぬ

                           田畑美穂女

邪は一年中ひくものだが、やはり風邪の季節といえば冬だろう。十二月になると、テレビでも毎年のように風邪薬のCMが目立ってくる。虚子に〈死ぬること風邪を引いてもいふ女〉という一句があるが、作者の田畑美穂女さんは、大阪の薬の町として名高い道修町(どしょうまち)の薬種商の家に生まれ、長く製薬会社の社長を務めた方である。風邪くらいで死ぬなどと言うのはもってのほか、仕事を休むこともせず朝からシャキッと着物を召し帯を締め終えて、さあ出かけようと鏡を見た。するとそこには、気持とはうらはらにぼんやりと風邪に覆われた顔が、正直に映っていたのだろう。装う、は身支度をすることだが、いつもより少し気の張った身支度だったのかもしれない。ああ、やっぱり風邪だわ、と思うとなにやら力が抜け、着付けた着物が急に重く感じられ、そのため息のような気持が、顔ありぬ、の下五に表れている。しかしそこで、その気持を一句にするところがまた、虚子門下の女傑、ユニークでおおらかと言われた所以であろう。ある句会の前、虚子に「昨晩、三句出句の句会で、四句先生の選に入った夢を見ました」と言い、虚子がその話を受けて、〈短夜や夢も現も同じこと〉という句を出したという逸話も残っており、その人柄句柄は多くの人を惹きつけた。『田畑美穂女句集』(1990)所収。(今井肖子)


December 22122006

 亡き夫の下着焼きをり冬の鵙

                           岡本 眸

者の夫は四十五歳で脳溢血で急逝。その時の夫への悼句のひとつである。人はいつも見ていながら平凡な風景として特段に注意を払わない事物や事柄に、或る時感動を覚える。見えるもののひとつひとつが、それまで感じたことのない新しい意味をもたらすのだ。「下着」がそれ。俳句的情趣という「ロマン」を纏わない「下着」が或る日、かけがえの無い情緒をもったものに変わる。同じときに創られた一連の悼句の中のひとつ「夕寒し下駄箱の上のセロテープ」もそう。夫の死によって、「夫が遺していった」という意味をもった瞬間、下着やセロテープが感動の事物に変化する。僕等はさまざまな個人的な「感動」を内包するあらゆる事物や風景のカットに一日何千、何万回も遭遇していながら、それを「自分」に引きつけて切り取ることができない。「共通理解」を優先して設定するため、いわゆる俳句的素材や「俳諧」の中に感動の最大公約数を求めてしまうからだ。作者は三十代の頃、俳句と並行して脚本家をこころざし、馬場當に師事して助手を務める。日常のさまざまのカットの中にドラマの一シーンを見出す設定に腐心した者の体験がこの句にも生かされている。『岡本眸読本』(富士見書房・1999)所載。(今井 聖)


December 21122006

 冬ざるるリボンかければ贈り物

                           波多野爽波

れはてて眼に入るもの全て寂しく荒れた様子が「冬ざるる」景色。そんな寒々としたシーンを読み手の脳裏に広げておいて、リボンをかけた贈り物へきゅっと焦点が絞られる。きっちりと上五で切れた二句一章の句だが、冬ざれた景そのものにサテンのリボンをかけて贈り物にしたような大らかさも感じられる。今やプレゼントも四季を問わず気軽に交換しあうものになりつつあるが、冬の最大の贈り物と言えばやはりクリスマスプレゼントだろう。この日の贈り物については昔から様々な物語がある。ブッシュ・ド・ノエルと呼ばれるクリスマスの棒状のケーキは、贈り物を買えない貧しい青年がひと抱えの薪にリボンを結んで恋人に贈ったのが始まりとか。愛する人を喜ばせようと心をこめて結ばれるリボン。「リボンかければ贈り物」と当たり前すぎるぐらい率直な言葉が贈り物の秘密を解き明かしているようである。この句のよさを言葉で説き明かすのは難しいけど作者の心ばえが、冬ざれた景に暖かい灯をともしているのは確かだろう。もうすぐクリスマス。間近に控えた大切な夜のため、きれいなリボンをかけた贈り物が押入れの奥に、車のトランクにそっとしまわれているかもしれない。『波多野爽波句集』第2巻(1990)所収。(三宅やよい)




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