2006N1221句(前日までの二句を含む)

December 21122006

 冬ざるるリボンかければ贈り物

                           波多野爽波

れはてて眼に入るもの全て寂しく荒れた様子が「冬ざるる」景色。そんな寒々としたシーンを読み手の脳裏に広げておいて、リボンをかけた贈り物へきゅっと焦点が絞られる。きっちりと上五で切れた二句一章の句だが、冬ざれた景そのものにサテンのリボンをかけて贈り物にしたような大らかさも感じられる。今やプレゼントも四季を問わず気軽に交換しあうものになりつつあるが、冬の最大の贈り物と言えばやはりクリスマスプレゼントだろう。この日の贈り物については昔から様々な物語がある。ブッシュ・ド・ノエルと呼ばれるクリスマスの棒状のケーキは、贈り物を買えない貧しい青年がひと抱えの薪にリボンを結んで恋人に贈ったのが始まりとか。愛する人を喜ばせようと心をこめて結ばれるリボン。「リボンかければ贈り物」と当たり前すぎるぐらい率直な言葉が贈り物の秘密を解き明かしているようである。この句のよさを言葉で説き明かすのは難しいけど作者の心ばえが、冬ざれた景に暖かい灯をともしているのは確かだろう。もうすぐクリスマス。間近に控えた大切な夜のため、きれいなリボンをかけた贈り物が押入れの奥に、車のトランクにそっとしまわれているかもしれない。『波多野爽波句集』第2巻(1990)所収。(三宅やよい)


December 20122006

 徒に凍る硯の水悲し

                           寺田寅彦

田寅彦については、今さら触れる必要はあるまい。物理学者であり、漱石門下ですぐれた随筆もたくさん残した。筆名・吉村冬彦。二十歳の頃には俳句を漱石に見てもらい、「ホトトギス」にも発表していた。俳号は藪柑子とも牛頓(ニュートン)とも。さて、一般的には、現在の私たちの書斎から硯の姿はなくなってしまったと言っていいだろう。あっても机の抽斗かどこかで埃にまみれ、「水悲し」どころか干あがって「硯の干物」と化しているにちがいない。私などはたまに気がふれたように筆を持ちたくなっても、筆ペンなどという便利で野蛮なシロモノに手をのばして加勢を乞うている始末。「硯の水悲し」ではなく「硯の干物悲し」のていたらくである。その昔、硯の水にしてみればまさか「徒に」凍っているつもりではあるまいが、冬場ちょっとうっかりしていると机の上の硯に残された水は凍ってしまったり、凍らないまでもうっすらと埃が浮いたりしてしまったものだ。それほど当時の部屋は寒かった。せいぜい脇に火鉢を置いて手をかざす程度。いくら寺田先生だって、まさか筆で物理学の研究をしていたわけではあるまい。手紙をしたためたりしたのだろう。だとすれば、忙しさにかまけてご無沙汰してしまって・・・・とまで、この一句から推察できる。この「悲し」はむしろ「あわれ」の意味合いが強く、悲惨というよりも滑稽味をむしろ読みとるべきだろう。一句から先生の寒々とした部屋や日常までが見えてくるようだ。たとえば同じ「凍る」でも、別の句「孤児の枕並べて夢凍る」などからは悲惨さが重く伝わってくる。1935年に発表した「俳句の精神」という俳句論のなかで、寅彦は「俳句の亡びないかぎり日本は亡びない」と結語している。71年後の今日、俳句と日本は果して如何? 『俳句と地球物理』(1997)所収。(八木忠栄)


December 19122006

 猪屠るかはるがはるに見にゆきぬ

                           大石悦子

ろそろ年賀状を考えなければならない時期である。毎年のように干支を年賀状で意識させられることもあり、十二支の動物たち、ことに自分の干支にあたる動物にはどことなく愛情を感じる人も多いだろう。来年の干支である猪は、昔から田畑を荒らす害獣でありながら、一方で貧しい村の飢えを満たす益獣でもあり「恩獣」という言葉も見られる生活に密着した動物であった。歳時記のなかでは、晩秋に山から下りてくる生きものとしての猪は秋、身体を芯からあたためる薬喰いの一種としての猪料理は冬の季語として分類されている。大きなもので百キロ近い獣が横たわり、村の男たちの手で解体され、生き物が肉塊となっていく行程はさぞや圧巻だろう。その現場をおそるおそる覗く者は、刃物をふるう一種の興奮状態からやや離れた位置で猪と対峙しているように思う。屍となり横たわる猪の宙を見据える目を、まざまざと感じてしまう距離である。同書に収められた〈闇汁に持ち来しものの鳴きにけり〉となると、その持参された「鳴く」ものに傾く哀れは一層濃くなる。万葉集巻16-3885にある「乞食者(ほかひひと)の詠」は、生け捕られた鹿が、その肉のみならず耳も爪も肝も加工され献上されていく様子を事細かに詠った長歌だが、最後に「右の歌一首は鹿の為に痛(おもひ)を述べてよめり)」の一文が添えられる。もし、掲句に添え書きがあるとすれば、それはやはり「猪のために痛みを述べて詠めり」だろうと思われる。『耶々』(2004)所収。(土肥あき子)




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