2006N1218句(前日までの二句を含む)

December 18122006

 肉体のかくもミケランジェロ冬へ

                           松田ひろむ

ダビデ像
ケランジェロは、言うまでもなく盛期ルネッサンスの三大巨匠の一人だ。有名なダビデ像をはじめとして、彼の創出した「肉体」は、その一筋一筋の筋肉描写までもが正確なことで知られる。さらに顕著なのは、その肉体の隅々にまで力がみなぎり、その力に魂がやどって輝いて見えるところだろう。単なる肉体美とは違う美しさだ。「かくも」肉体の信じられた時代があり、「かくも」肉体が雄弁に語った時代があった。現代人からすると、ほとんど信じられない肉体へのこだわりが、しかし無理なく私たちの心に沁み入ってくるのは、何故だろうか。揚句は「かくも」の内容には、いっさい触れていない。そこが良い。「かくも」の中身は、句を読んで、読者のなかに一瞬去来するものなのであり、その去来するものは、読者によってそんなに差の無いなにものかであるだろう。そのなにものかを素手で引っ掴むようにして、読者は作者とともに、寒くつめたく長い暗鬱な季節に立ち向かう勇気を得るのである。雄渾にして健康的な句だ。高村光太郎の「冬が来た」の一節を思い出す。「……冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」。「俳句研究」(2007年1月号)所載。(清水哲男)


December 17122006

 湯屋あるらし小春の空の煙るかな

                           奥名房子

んびりとした冬の一日(ひとひ)を描いています。季語は「小春」、春という字が入っていますが、冬の季語です。冬ではあるけれども、風もなく、おだやかで、まるで春のように暖かい日を言います。湯屋とは、もちろん風呂屋あるいは銭湯のことです。「ゆや」というヤ行のやわらかい響きが、その意味になるほど合っています。「あるらし」と言っているところを見ますと、地元の風景を言っているのではなく、どこかへ出かけた先での情景でしょうか。それも、急で深刻な要件の外出ではないようです。昔の友人にでも久しぶりに会いにゆくのでしょうか。小さな私鉄の駅から降りて、人通りの少ない道を歩いてゆくと、地面に張り付いたように広がる背の低い街並みが見えます。じゅうぶんな広さを与えられた空が、目の前にゆったりと広がっています。その中空に、ひとすじの煙が上がっては流れ、空へ溶けてゆきます。あの下には、もしかしたら銭湯があって、のんびりと昼の湯に浸かっている人たちがいるのかしらんと、思っているのです。句全体に、「ら」行の響きが多用され、この外出の心を、より浮き立たせているように感じさせます。『朝日俳壇』(朝日新聞・2006年12月4日付)所載。(松下育男)


December 16122006

 猫の耳ちらと動きて笹鳴ける

                           藤崎久を

告鳥(はるつげどり)とも呼ばれるウグイス、その鳴き声といえば「ホーホケキョ」。春まだ浅い頃に繁殖期を迎え巣を作った雄は、その声で雌を誘う。お互いの縄張りを主張し、タカなど大きい鳥を警戒するための谷渡りなど、人が古くから愛でてきたさえづりも、ウグイスにとってはまさに生きぬくためのものだ。やがて夏、ヒナが生まれ、秋を経て若鳥に成長、晩秋から冬にかけて人家の近くにおりてきて「チッチチッチッ…」と小さく地鳴きするのを、笹鳴(ささなき)と呼び、目立ってくるのは冬なので冬季となっている。やはりあたりを警戒するためというが、繁殖期と違い不必要に大きい声は出さない。一方の猫、犬以上の聴力を持ち、20m離れた2つの音源の40cmの差違を聞き分けるという。イエネコといえども狩猟本能は健在、笹鳴きに敏感に反応した瞬間をとらえた一句である。作者は日だまりでのんびりしている猫を見ていたのか、まず猫の耳がかすかに動く。その時、猫だけがウグイスの気配をとらえており、作者は気づいていない。と、次の瞬間小さく笹鳴が聞こえたのだ。動きて、が猫の一瞬の鋭い本能をとらえ、冬の日だまりの風景に余韻を与えている。阿蘇の広大な芒原に〈大阿蘇の霞の端に遊びけり〉という藤崎さんの句碑が建っている。句集『依然霧』の後書きには、阿蘇の自然への敬虔な思いと共に、「造化のまことの姿に自分を求めつつ、一つの道を歩きつづけるつもりである。」という一文が添えられているが、1999年惜しまれつつ亡くなられた。依然霧、三文字の短詩のようだが〈水音のしてきしほかは依然霧〉の一句より。『依然霧』(1990)所収。(今井肖子)




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