2006N1217句(前日までの二句を含む)

December 17122006

 湯屋あるらし小春の空の煙るかな

                           奥名房子

んびりとした冬の一日(ひとひ)を描いています。季語は「小春」、春という字が入っていますが、冬の季語です。冬ではあるけれども、風もなく、おだやかで、まるで春のように暖かい日を言います。湯屋とは、もちろん風呂屋あるいは銭湯のことです。「ゆや」というヤ行のやわらかい響きが、その意味になるほど合っています。「あるらし」と言っているところを見ますと、地元の風景を言っているのではなく、どこかへ出かけた先での情景でしょうか。それも、急で深刻な要件の外出ではないようです。昔の友人にでも久しぶりに会いにゆくのでしょうか。小さな私鉄の駅から降りて、人通りの少ない道を歩いてゆくと、地面に張り付いたように広がる背の低い街並みが見えます。じゅうぶんな広さを与えられた空が、目の前にゆったりと広がっています。その中空に、ひとすじの煙が上がっては流れ、空へ溶けてゆきます。あの下には、もしかしたら銭湯があって、のんびりと昼の湯に浸かっている人たちがいるのかしらんと、思っているのです。句全体に、「ら」行の響きが多用され、この外出の心を、より浮き立たせているように感じさせます。『朝日俳壇』(朝日新聞・2006年12月4日付)所載。(松下育男)


December 16122006

 猫の耳ちらと動きて笹鳴ける

                           藤崎久を

告鳥(はるつげどり)とも呼ばれるウグイス、その鳴き声といえば「ホーホケキョ」。春まだ浅い頃に繁殖期を迎え巣を作った雄は、その声で雌を誘う。お互いの縄張りを主張し、タカなど大きい鳥を警戒するための谷渡りなど、人が古くから愛でてきたさえづりも、ウグイスにとってはまさに生きぬくためのものだ。やがて夏、ヒナが生まれ、秋を経て若鳥に成長、晩秋から冬にかけて人家の近くにおりてきて「チッチチッチッ…」と小さく地鳴きするのを、笹鳴(ささなき)と呼び、目立ってくるのは冬なので冬季となっている。やはりあたりを警戒するためというが、繁殖期と違い不必要に大きい声は出さない。一方の猫、犬以上の聴力を持ち、20m離れた2つの音源の40cmの差違を聞き分けるという。イエネコといえども狩猟本能は健在、笹鳴きに敏感に反応した瞬間をとらえた一句である。作者は日だまりでのんびりしている猫を見ていたのか、まず猫の耳がかすかに動く。その時、猫だけがウグイスの気配をとらえており、作者は気づいていない。と、次の瞬間小さく笹鳴が聞こえたのだ。動きて、が猫の一瞬の鋭い本能をとらえ、冬の日だまりの風景に余韻を与えている。阿蘇の広大な芒原に〈大阿蘇の霞の端に遊びけり〉という藤崎さんの句碑が建っている。句集『依然霧』の後書きには、阿蘇の自然への敬虔な思いと共に、「造化のまことの姿に自分を求めつつ、一つの道を歩きつづけるつもりである。」という一文が添えられているが、1999年惜しまれつつ亡くなられた。依然霧、三文字の短詩のようだが〈水音のしてきしほかは依然霧〉の一句より。『依然霧』(1990)所収。(今井肖子)


December 15122006

 ヘッドライトに老人浮かぶ聖夜かな

                           鈴木鷹夫

人を見かけることが多くなった。幾つから老人というのか、どういうのを老人ふうというのか、そんなことは定かには言えないが、とにかくあらゆる場所に老人が増えている。出生率が減りつづけ、子供は少なく生んで、過保護に育てる。医療は進み平均寿命は延びる。その結果必然的に老人が氾濫する、街にも村にも道路にも。老人やその医療に関する用語も溢れている、介護、痴呆、ケア、独居、寝たきり等々。ヘッドライトをどこに当てても老人が映っている。おお主よ!僕にとって感慨深いのは、全共闘世代と言われた世代が還暦になること。その世代の末端にいた僕は先輩たちの明晰な論理と勇猛なる行動に目を瞠り、鼓舞され、その後の生き方と考え方に大きな影響を受けた。ときには学籍や就職も捨てて、或いは、獄につながれても巨大な権力と闘った学生たちの多くは、その後、意を屈して権力構造に組み込まれていく。僕もまさしく。しかし、先輩、同輩たちよ、もう停年なのだ。資本から、もうお前は要らないと言われたら、退職金だけちゃんともらって、アカンベエをしよう。アカンベエじゃすまないぞ。どてっぱらに一発喰らわせてやる。四十年という時間を買ってくれたお礼参りをしようぜ。『鈴木鷹夫句集』(現代俳句文庫・1999)所収。(今井 聖)




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