季語が笹鳴の句

December 16122006

 猫の耳ちらと動きて笹鳴ける

                           藤崎久を

告鳥(はるつげどり)とも呼ばれるウグイス、その鳴き声といえば「ホーホケキョ」。春まだ浅い頃に繁殖期を迎え巣を作った雄は、その声で雌を誘う。お互いの縄張りを主張し、タカなど大きい鳥を警戒するための谷渡りなど、人が古くから愛でてきたさえづりも、ウグイスにとってはまさに生きぬくためのものだ。やがて夏、ヒナが生まれ、秋を経て若鳥に成長、晩秋から冬にかけて人家の近くにおりてきて「チッチチッチッ…」と小さく地鳴きするのを、笹鳴(ささなき)と呼び、目立ってくるのは冬なので冬季となっている。やはりあたりを警戒するためというが、繁殖期と違い不必要に大きい声は出さない。一方の猫、犬以上の聴力を持ち、20m離れた2つの音源の40cmの差違を聞き分けるという。イエネコといえども狩猟本能は健在、笹鳴きに敏感に反応した瞬間をとらえた一句である。作者は日だまりでのんびりしている猫を見ていたのか、まず猫の耳がかすかに動く。その時、猫だけがウグイスの気配をとらえており、作者は気づいていない。と、次の瞬間小さく笹鳴が聞こえたのだ。動きて、が猫の一瞬の鋭い本能をとらえ、冬の日だまりの風景に余韻を与えている。阿蘇の広大な芒原に〈大阿蘇の霞の端に遊びけり〉という藤崎さんの句碑が建っている。句集『依然霧』の後書きには、阿蘇の自然への敬虔な思いと共に、「造化のまことの姿に自分を求めつつ、一つの道を歩きつづけるつもりである。」という一文が添えられているが、1999年惜しまれつつ亡くなられた。依然霧、三文字の短詩のようだが〈水音のしてきしほかは依然霧〉の一句より。『依然霧』(1990)所収。(今井肖子)


November 25112009

 枯菊や日々に覚めゆく憤り

                           萩原朔太郎

かなる植物も、特に花を咲かすものは盛りを過ぎたら、その枯れた姿はひときわ無惨に映る。殊に菊は秋に多くの鑑賞者を感嘆させただけに、枯れた姿との落差は大きいものがある。しかも季節は冬に移っているから、いっそう寒々しい。目を向ける人もいなくなる。掲出句には「我が齢すでに知命を過ぎぬ」とあるのだが、自分も、知命=天命を知る五十歳を過ぎて老齢に向かっている。そのことを枯菊に重ねて感慨を深くしているのだろう。若い頃の熱い憤りにくらべ、加齢とともにそうした心の熱さ、心の波立ちといったものがあっさりと覚めていってしまうのは、朔太郎に限ったことではない。朔太郎は昭和十年に五十歳をむかえている。この年に『純正詩論』『絶望の逃走』『猫町』等を刊行している。前年には『氷島』を、翌年には『定本青猫』を刊行している。知命を過ぎてから、この句がいつ書かれたのかという正確な時期は研究者にお任せするしかないが、朔太郎が五十一歳になっていた昭和十一年二月に「二・二六事件」が起きている。事件の推移を佐藤惣之助らとラジオで聴いて、こう記している。「二月二十六日の事件に関しては、僕はただ『漠然たる憤り』を感じてゐる。これ以上に言ふことも出来ないし、深く解明することもできない。云々」(伊藤信吉・年譜)。その「憤り」だったかどうか? 他に「笹鳴や日脚のおそき縁の先」がある。平井照敏『新歳時記』(1989)所収。(八木忠栄)


December 09122015

 笹鳴の日かげをくぐる庭の隅

                           萩原朔太郎

の地鳴きのことを「笹鳴」という。手もとの歳時記には「幼鳥も成鳥も、また雄も雌も、冬にはチャッ、チャッという地鳴きである」と説明されている。また『栞草』には「〈ささ〉は少しの義、鶯の子の鳴き習ひをいふなるべし」とある。まだ日かげが寒々としている冬の日に、庭の隅から出てきた鶯が、まだ鶯らしくもなく小さな声で鳴きながら庭を歩いている光景なのであろう。それでも声は鶯の声なのである。朔太郎にしては特別な発見もない月並句だけれど、日頃から心が沈むことの多かった朔太郎が、ふと笹鳴に気づいて足を止め、しばし静かに聞き惚れていたのかもしれない。あの深刻な表情で。ある時のおのれの姿をそこに投影していたのかもしれない。鶯が美声をあたりに振りまく時季は、まだまだ先のことである。朔太郎の他の句には「冬さるる畠に乾ける靴の泥」があるけれど、この句もどこかしらせつなさが感じられてしまう。『萩原朔太郎全集』第3巻(1986)所収。(八木忠栄)




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