2006N1210句(前日までの二句を含む)

December 10122006

 凍蝶に待ち針ほどの顔ありき

                           みつはしちかこ

の人も句を詠むのかという思いを、俳句を読み始めてすでに幾度か持ちました。現代詩にはそのようなことはめったになく、俳句の世界の懐の深さと、間口の広さをあらためて実感させられます。掲句、凍蝶(いてちょう)と読みます。17文字という短い世界のせいなのか、俳句には時折、無理に意味を押し込めた窮屈な単語を見ますが、この言葉はすっきり二文字に収まっています。凍蝶とは、生死の境に身を置いて、凍ったように動かずにいる状態の蝶を言います。蝶の顔が待ち針のようだとは、言われてみればなるほどと納得のさせられる比喩です。待ち針の鮮やかな色の様が、蝶という生き物のかわいらしさに重ねあわさったように感じられます。どうということのない描写ですが、読者をほっとさせ、あたたかな気持ちにさせる才能は、俳句にも生かされているようです。じっと動かずに、死んでいるように見える蝶に顔を近づけると、きちんと命はこの世につながっていた、という意味なのでしょう。思わず、蝶のうつむき加減の表情まで想像してしまいます。「待ち針」という言葉が、その姿によって引用されているだけではなく、春へ向かう時を「待つ」ということにも、通じているような気がします。『生と死の歳時記』(法研・1999)所載。(松下育男)


December 09122006

 赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

                           渡辺白泉

車の中での高校生らしき二人連れの会話。「日本とアメリカって戦争したことがあるんだって」「うそ〜、それでどっちが勝ったの?」……つい最近知った実話である。そんな彼等が修学旅行で広島へ長崎へ、遺された悲惨な光景に涙を流す。しかしそれは映画を観て流す涙と同質のものであり、やがて乾き忘れられていくのだ。体験していないというのはそういうことだろう。かくいう私も昭和二十九年生まれ、団塊の闘士世代と共通一次世代のはざま、学生運動すら体験していない。〈白壁の穴より薔薇の国を覗く〉〈立葵列車が黒く掠めゐる〉〈檜葉の根に赤き日のさす冬至哉〉鮮やかな色彩が季題を得て、不思議な感覚で立ち上がってくる白泉の句。しかし掲句にあるのは、燃えさかり、溢れ出し、凍え、渦巻く、たとえようもない慟哭に包まれた光景であり、それは最後に燃え尽きて暗黒の闇となり沈黙するが、読むものには永遠に訴え続ける。前出の会話は、宇多喜代子さんがとある講座で話されていたのだが、その著書『ひとたばの手紙から・戦火を見つめた俳人たち』の中で初めてこの句にふれ、無季だからと素通りすることがどうしてもできなかった。季題の力が、生きとし生けるものすべてに普遍的に訪れる四季に象徴される自然の力だとすれば、その時代には、生きているすべての命にひたすら戦争という免れがたい現実が存在していた。今は亡き、藤松遊子(ゆうし)さんの句を思い出す。〈人も蟻も雀も犬も原爆忌〉『ひとたばの手紙から』(2006・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


December 08122006

 漂へる手袋のある運河かな

                           高野素十

い、おい、ちょっと待てよと虚子は慌てたに違いない。「素十よ、確かに俺は写せとは言ったけれど」と。虚子が「ホトトギス」内の主観派粛清の構想を練ったのは、飯田蛇笏や渡辺水巴、前田普羅などの初期の中核が、主観へのこだわりを持っていたから。見せしめに粛清され破門となったのは主観派原田濱人。そして、虚子は素十の作品を範として示して、「ホトトギス」の傾向かくあるべしと号令を発する。標語「客観写生」の始まりである。素十はいわば虚子学級の学級委員長として指名されたのである。心底虚子先生を尊敬して止まない素十は、言われるままに主観を入れずただひたすら写しに写した。その結果こういう句が生まれてきたのである。「客観写生」に対する素十の理解は、素材を選ぶことなく眼前の事物を写すこと。その結果、従来の俳句的情緒から抜けた同時代の感動が映し出される。たとえばこの句のように。虚子が考えていた「客観写生」はそれとは違う。従来の俳句の「侘び、寂び」観の中での写生。虚子のテーマは写すことそのものではなく、類型的情緒の固定化だった。運河に浮く手袋のどこに俳句的な情緒があるのか。虚子は自分の提唱した「客観写生」が、その言葉通り実行された結果、自分の意図と違った得体の知れない「近代」を映し出したことに狼狽する。モダニズムが必ずしも一般性を獲得しないことを虚子は知っていたから。虚子は慌てて「客観写生」を軌道修正し、「花鳥諷詠」と言い改める。「写生」が、本意と称する類型的情緒と同一視されていく歴史がこの時点から始まるのである。『素十全集』(1971)所収。(今井 聖)




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