2006N12句

December 01122006

 数へ日の夕富士ぽつんと力あり

                           櫻井博道

七沿いの池上に近いあたりだったか、病院に博道(はくどう)さんを見舞ったことがある。もう三十年も前のこと。鼻と喉に管の入ったまま、博道さんはにこにこと起き上がり、ベッドに腰かけて軽く足踏みをする格好をしてみせた。歩けるようになるよというジェスチャーだった。その数年前に博道さんは第十七回の現代俳句協会賞を受賞したが、身体の方は、宿痾となった結核との闘いが続いていた。その後も入退院を繰り返しながら、一九九一年に六十歳で永眠。痩身で眼鏡の温顔。その風貌と境涯から僕はお会いするといつも石田波郷との共通点を思った。博道さんの句の傾向は清冽、素朴。柔軟無碍な文体を駆使する波郷とは似て非なる世界を示している。この句、そう言えばあの病院から富士山が見えたかもしれないと気づいた。ぽつんとしているが、「力」が感じられる。博道さんは病との闘いの末にそんな生き方を目指しておられたのだろう。『文鎮』(1987)所収。(今井 聖)


December 02122006

 人ゐれば人の顔して寒鴉

                           浅利恵子

朝もお隣のアンテナに鴉が止まっている。都会でも、都会だからか、鴉を見かけない日はない。したがって、ただ鴉といっても季節感は乏しく、鴉の巣が春季、鴉の子が夏季、初鴉は正月といった具合である。寒鴉は冬季、寒中の鴉のこと。河鍋暁斉の「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」なる絵は、枯れ枝の先にとまっている一羽の鴉の孤高な姿を描いて厳かな雰囲気さえ感じられるが、この句の寒鴉はどこか親しい。東京あたりで見られるのは、おでこの出っ張った嘴の太いハシブトガラスが大半だが、農村地帯、低山地に多く見られるのはハシボソガラス、細く尖った嘴を持ち顔もすっきりした印象である。浅利恵子さんは秋田の方なので、この場合の鴉はハシボソだろう。「朝、ごみを出しに行ったらちょこんと待っていたのよ」とお聞きした記憶がある、二年前だ。あ、カラス、と思ったその一瞬、またゴミを散らかしに来たとばかりに追い払うことなく、にっこり笑って鴉と少しの間話していたのかもしれない。賢く抜け目のない様子を、人ゐれば、それでもどこか憎めない親しさを、人の顔して、と、いかにも鴉が見える一句となった。厳しい冬を共に生きるものへのあたたかな眼差しも感じられるこの句は、平成十六年第三回芦屋国際俳句祭の募集句の中から、高浜虚子顕彰俳句大賞を受賞。「代表句はなんですか、と聞かれることがあるのだけれど、まだまだこの先もっと佳い句が詠めるかもしれない、と思うと、この句です、とは決められないの」と笑いながらおっしゃっていた。生まれ育った秋田の自然を慈しみ、日々の暮らしの中でさりげない佳句を多く詠まれたが、先日急逝された、享年五十八歳。〈あきらめは死を選ることと雪を掻く〉それでも厳しい雪との暮らしもまた好き、と、いつも前向きなまま駆け抜けてしまわれた。前出の俳句祭募集句入選句集に所載。(今井肖子)


December 03122006

 暦売る家あり奈良の町はづれ

                           五十嵐播水

レンダーというものは、今でこそ10月くらいからデパートでも書店でも売っています。また、酒店や会社からただでもらう機会もすくなくありません。しかし昔は、「暦屋」なるものがあって、特定の場所で売られていたようです。たかが印刷物ですが、やはり印刷された数字の奥には、それぞれの日々がつながっており、人の生活にはなくてはならないものです。「古暦」といえば、過去の時間がたっぷり詰め込まれた思い出の集積です。それはそれで捨てがたいものがあり、見ていて飽きないものですが、この句が詠んでいるのは、もちろん「初暦」です。まだなにも書かれていない、まっさらな日々の一束(ひとたば)です。暦を売る「家」とあり、「店」とはいっていないところを見ると、大げさに店を構えているのではなく、片隅で、数冊の「日々」を商っているのでしょうか。奈良の町はづれに、古い時代を身に纏(まと)ったようにして暦を商う家があります。「奈良」という地名が、悠久の時の流れを感じさせ、その時の流れから、一年分を切り取って、店先で売り出しているようです。句の端から端までを、きれいに「時」が貫いています。『合本俳句歳時記 第三版』(角川書店)所載。(松下育男)


December 04122006

 白鳥来る虜囚五万は帰るなし

                           阿部宗一郎

者は1923年生まれ、山形県在住。季語は「白鳥」で冬。遠くシベリアから飛来してきた白鳥を季節の風物詩として、微笑とともに仰ぎ見る人は多いだろう。しかしなかには作者のように、かつての抑留地での悲惨な体験とともに、万感の思いで振り仰ぐ人もいることを忘れてはなるまい。四千キロの海を越えて白鳥は今年もまたやってきたが、ついに故国に帰ることのできない「虜囚(りょしゅう)五万」の無念や如何に。ここで作者はそのことを抒情しているのではなく、むしろ呆然としていると読むのが正しいのだと思う。別の句「シベリアは白夜と墓の虜囚より」に寄せた一文に、こうある。「戦争そして捕虜の足かけ十年、私は幾度となく死と隣り合わせにいた。いまの生はその偶然の結果である。/この偶然を支配したのは一体何だったのか。人間がその答えを出すことは不可能だが、ひとつだけ確実に言えることは、その偶然をつくり出したものこそ戦争犯罪人だということである。/戦争を引き起こすのは、いついかなる戦争であろうとも、権力を手にした心の病める人間である」。いまや音を立ててという形容が決して過剰ではないほどに、この国は右傾化をつづけている。虜囚五万の犠牲者のことなど、どこ吹く風の扱いだ。そのような流れに抗して物を言うことすらも野暮と言われかねない風潮にあるが、野暮であろうと何だろうと、私たちはもう二度と戦争犯罪に加担してはならないのだ。それが、これまでの戦争犠牲者に対しての、生きてある人間の礼節であり仁義というものである。まもなく開戦の日(12月8日)。『君酔いまたも征くなかれ』(2006)所収。(清水哲男)


December 05122006

 寒禽の落としてゆきしものの湯気

                           上野龍子

え込みも日に日に本格的となる今日この頃。寒禽とは、切るような冷たい冬の空を舞う鳥たちのことである。もちろん身体の大きな鷲や鷹なども含まれるが、掲句にはヒヨドリやムクドリなど、民家の庭先に訪れる身近な鳥の姿を思う。「落としてゆきしもの」とは、もちろん尾籠なるフンのことであるが、少しも汚らしさがないのは、そこに生きとし生けるものの体温がそのまま「湯気」としてあらわれているからであろう。また、落としてゆくもののなかに、運搬された新天地で芽吹きの時を待つ種子などが含まれることも考え、その湯気にはさまざまないのちのあたたかみが詰まっているようにも思う。厳しい自然のルールのなかの死は、穏やかな老衰とは無縁で、餓死か、天敵に捕われるかのどちらかだと聞く。また、野鳥は弱っていると見られたら最後、真っ先に狙われることもあり、死の直前まで決して弱々しい姿を見せない。このため、死は驚くほどに唐突に訪れるのだという。以前、目の前で枝から落ちた小鳥を助けようと手に乗せたが、みるみる羽ばたきは弱まり、黒いビーズのような瞳に薄い膜がかかり、あっという間に亡くなってしまった。なにひとつ手出しすることを拒むような死だった。冬を乗り越えることも大きな命の節目であろう。生きろ生きろ、と冬の鳥や獣たちに力いっぱいエールを送る。『中洲』(2006)所収。(土肥あき子)


December 06122006

 湯殿より人死にながら山を見る

                           吉岡 実

語のない句だが、句柄から春でも夏でもないことは読みとれる。秋から冬へかけての時季と受けとりたい。土方巽や大野一雄に敬愛され、暗黒舞踏に対して一家言もっていた吉岡実は、北方舞踏派の公演を山形へ観に出かけたことがあった。その折の羽黒山参拝をテーマに「あまがつ頌」という詩を書いた。掲出句はそのなかに挿入された俳句七句のうちの一句。「湯殿」は風呂であるが、ここでは湯殿山のことでもある。風呂で裸になった人が山を見上げている、その放心して無防備な姿は、死にゆく者のような不吉なふぜいと見ることもできるだろう。あるいは湯殿山(1500M)にいて、そこに連なる月山(1984M)を見上げている、どこやら不吉な図でもある。月山をはじめとして、ミイラ仏の多い一帯である。(私の祖父はよく「ナムアミダブツ・・・」と呟きながら湯船に沈んでいた。)「あまがつ頌」は詩集『サフラン摘み』(青土社・1976)に収められた。親しかった高柳重信を訪ねた吉岡実が、出来たばかりのこの詩集を渡すと一瞥して「自分には一寸つくれない奇妙な句だと感じ入ったように言った」と後に吉岡実は書き、同時に「芭蕉の『語られぬ湯殿に濡す袂かな』に挑戦を試みた」とも書いている。芭蕉の句を十分に凌駕しているではないか。掲出句と一緒に収められた他の句、「干葉汁すする歯黒の童女かな」は「羽黒」、「葛山麓糞袋もたぬかかし達」は「月山」、「雪おんな出刃山刀を隠したり」は「出羽」、「喪神川畜生舟を沈めける」は「最上川」を、それぞれ言い換えて冴えわたっている。いずれも身の引き締まるすさまじさ! 吉岡実は若い頃に俳句や短歌も実作していただけでなく、生涯にわたってそれぞれにきわめて強い関心をもちつづけた。句集『奴草』(2003)所収。(八木忠栄)


December 07122006

 雪降ってコーヒー組と紅茶組

                           中原幸子

いと思ったら、この街ではめったにお目にかかれない雪が舞いはじめた。外の情景をさっと描写したところで視点は喫茶店の内側へと切り替る。どっと入ってきてようやく席に落ち着いた一行。注文をとりに来たウェイトレスを前に幹事役の人が「コーヒーの人」「紅茶の人」と賑やかに声をかけ、手を挙げてもらっている。たくさん人が集まればよく見かける光景であるが、いい大人が「はい、はい」と、素直に手を挙げる様子もどこか子供じみて可愛げがある。幹事のとっさの問いかけであったが、この時は他の注文もなく、きれいにコーヒー組と紅茶組に分かれたのだろう。そんな偶然をきっかけにちょっと堅かった座の雰囲気も自然にほぐれる。「そういえば、あなた朝食はごはんそれともパン?」「猫が好き?犬が好き?」よく話題にのぼる二分法についてコーヒー組と紅茶組との間で会話が弾み始めたかもしれない。暖かな飲物もゆきわたり、ほっと落ち着いた気分で窓に眼をやれば雪はちらちらと降り続いている。白く細やかな雪が楽しげな室内の空気をいっそう引き立てるようである。幸子の句には都会で暮らす日常のなにげない出来事が季節を感受する喜びとともに生き生きと書きとめられている。それは今の暮しの原風景であるように思える。『以上、西陣から』(2006)所収。(三宅やよい)


December 08122006

 漂へる手袋のある運河かな

                           高野素十

い、おい、ちょっと待てよと虚子は慌てたに違いない。「素十よ、確かに俺は写せとは言ったけれど」と。虚子が「ホトトギス」内の主観派粛清の構想を練ったのは、飯田蛇笏や渡辺水巴、前田普羅などの初期の中核が、主観へのこだわりを持っていたから。見せしめに粛清され破門となったのは主観派原田濱人。そして、虚子は素十の作品を範として示して、「ホトトギス」の傾向かくあるべしと号令を発する。標語「客観写生」の始まりである。素十はいわば虚子学級の学級委員長として指名されたのである。心底虚子先生を尊敬して止まない素十は、言われるままに主観を入れずただひたすら写しに写した。その結果こういう句が生まれてきたのである。「客観写生」に対する素十の理解は、素材を選ぶことなく眼前の事物を写すこと。その結果、従来の俳句的情緒から抜けた同時代の感動が映し出される。たとえばこの句のように。虚子が考えていた「客観写生」はそれとは違う。従来の俳句の「侘び、寂び」観の中での写生。虚子のテーマは写すことそのものではなく、類型的情緒の固定化だった。運河に浮く手袋のどこに俳句的な情緒があるのか。虚子は自分の提唱した「客観写生」が、その言葉通り実行された結果、自分の意図と違った得体の知れない「近代」を映し出したことに狼狽する。モダニズムが必ずしも一般性を獲得しないことを虚子は知っていたから。虚子は慌てて「客観写生」を軌道修正し、「花鳥諷詠」と言い改める。「写生」が、本意と称する類型的情緒と同一視されていく歴史がこの時点から始まるのである。『素十全集』(1971)所収。(今井 聖)


December 09122006

 赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

                           渡辺白泉

車の中での高校生らしき二人連れの会話。「日本とアメリカって戦争したことがあるんだって」「うそ〜、それでどっちが勝ったの?」……つい最近知った実話である。そんな彼等が修学旅行で広島へ長崎へ、遺された悲惨な光景に涙を流す。しかしそれは映画を観て流す涙と同質のものであり、やがて乾き忘れられていくのだ。体験していないというのはそういうことだろう。かくいう私も昭和二十九年生まれ、団塊の闘士世代と共通一次世代のはざま、学生運動すら体験していない。〈白壁の穴より薔薇の国を覗く〉〈立葵列車が黒く掠めゐる〉〈檜葉の根に赤き日のさす冬至哉〉鮮やかな色彩が季題を得て、不思議な感覚で立ち上がってくる白泉の句。しかし掲句にあるのは、燃えさかり、溢れ出し、凍え、渦巻く、たとえようもない慟哭に包まれた光景であり、それは最後に燃え尽きて暗黒の闇となり沈黙するが、読むものには永遠に訴え続ける。前出の会話は、宇多喜代子さんがとある講座で話されていたのだが、その著書『ひとたばの手紙から・戦火を見つめた俳人たち』の中で初めてこの句にふれ、無季だからと素通りすることがどうしてもできなかった。季題の力が、生きとし生けるものすべてに普遍的に訪れる四季に象徴される自然の力だとすれば、その時代には、生きているすべての命にひたすら戦争という免れがたい現実が存在していた。今は亡き、藤松遊子(ゆうし)さんの句を思い出す。〈人も蟻も雀も犬も原爆忌〉『ひとたばの手紙から』(2006・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


December 10122006

 凍蝶に待ち針ほどの顔ありき

                           みつはしちかこ

の人も句を詠むのかという思いを、俳句を読み始めてすでに幾度か持ちました。現代詩にはそのようなことはめったになく、俳句の世界の懐の深さと、間口の広さをあらためて実感させられます。掲句、凍蝶(いてちょう)と読みます。17文字という短い世界のせいなのか、俳句には時折、無理に意味を押し込めた窮屈な単語を見ますが、この言葉はすっきり二文字に収まっています。凍蝶とは、生死の境に身を置いて、凍ったように動かずにいる状態の蝶を言います。蝶の顔が待ち針のようだとは、言われてみればなるほどと納得のさせられる比喩です。待ち針の鮮やかな色の様が、蝶という生き物のかわいらしさに重ねあわさったように感じられます。どうということのない描写ですが、読者をほっとさせ、あたたかな気持ちにさせる才能は、俳句にも生かされているようです。じっと動かずに、死んでいるように見える蝶に顔を近づけると、きちんと命はこの世につながっていた、という意味なのでしょう。思わず、蝶のうつむき加減の表情まで想像してしまいます。「待ち針」という言葉が、その姿によって引用されているだけではなく、春へ向かう時を「待つ」ということにも、通じているような気がします。『生と死の歳時記』(法研・1999)所載。(松下育男)


December 11122006

 昼の雪どこかが違ふ写真のかほ

                           谷さやん

者は四国の松山市在住。めったに雪の降らない温暖の地だから、降ってくると、そぞろ気持ちがざわめいてくる。雪国の人とは裏腹に、なんだか嬉しいようなそわそわするような、どこか明るいざわめきである。句のシチュエーションは二通りに読め、一つは「昼の雪」が写真に写りこんでいる場合と、もう一つはいま外で実際に雪が降っていて、誰かの写真を見ている場合だ。私は後者と読んでおく。この写真は、見慣れた写真だ。いささか観光案内めくが、たとえば松山市にある子規記念館の子規の肖像写真である(むろん、そうと決まったわけじゃないけれど)。誰でも知っている有名なあの写真の前を通りかかって、ふと足が止まった。平生なら見るともなく見て通り過ぎる写真なのだが、「おや」と気になり、しげしげと見つめてみると、「かほ」が「どこか違って」いるように見えたというのだ。こんな「かほ」だったかなあ、どこか違うなあと、もう一度見つめ直している。理屈をこねれば、違っているのは写真ではなくて、雪による作者の気分と、物理的には館内に注ぐ外光とだ。この二つの要素が重なって、見慣れた写真がそうではないように思えてくる。すなわち揚句は、暖国の雪の日の気持ちのざわめきようを「写真のかほ」の見え方を通して間接的に表現しているのであり、こういうことは俳句でしか言えないという意味でも、なかなかの佳句だと思う。『逢ひに行く』(2006)所収。(清水哲男)


December 12122006

 雪女くるべをのごら泣ぐなべや

                           坊城俊樹

粋を承知で標準語にすれば「雪女がくるぞ男の子なんだから泣くな」とでもなるのだろうか。雪女は『怪談』『遠野物語』などに登場する雪の妖怪で、座敷わらしやのっぺらぼうに並ぶ、親しみ深い化け物の一人だろう。雪女といえば美しい女として伝えられているが、そのいでたちときたら、雪のなかに薄い着物一枚の素足で佇む、いかにも貧しい姿である。一方、西洋では、もっとも有名なアンデルセンの『雪の女王』は、白くまの毛皮でできた帽子とコートに身を包み、立派な橇を操る百畳の広間がある氷の屋敷に暮らす女王である。この豪奢な暮らしぶりに、東西の大きな差を見る思いがするが、日本の伝承で雪女は徹底した悪者と描くことはなく、どこか哀切を持たせるような救いを残す。氷の息を吹きかけるものや、赤ん坊を抱いてくれと頼むものなどの類型のなかで、その雪のように白い女のなかには、幸いを与えるという一面も持っているものさえもあり、ある意味で山の神に近い性格も備えている。さらに掲句には、美貌の雪女にのこのこと付いて行く愚かな人間の男たちへの嘲笑が込められているような、女の表情も垣間見ることができる。「雪女郎美しといふ見たきかな」(大場白水郎)、「雛の間の隣りは座敷童子の間」(小原啄葉)など、かつて雪に閉じ込められるように暮らしてきた人々が作り出した妖怪たちに、日本人は親しみと畏れのなかで、深い愛情を育んできたように思えるのだ。『あめふらし』(2005)所収。(土肥あき子)


December 13122006

 滾々と水湧き出でぬ海鼠切る

                           内田百鬼園

鼠(なまこ)から滾々(こんこん)と水が湧き出る――というとらえ方はあっぱれと舌を巻くしかない。晩酌をおいしくいただくために、午後からは甘いものをはじめ余分なものは摂らずに過ごそうと、涙ぐましい努力をしていたことを、百鬼園はどこかで書いていた。本当の酒呑みとはそうしたものであろう。午後の時間に茶菓を人に勧められて断わるのも失礼だし、かといって・・・・と嘆く。そんな百鬼園が冬の晩酌の膳に載せんとして海鼠に庖丁を入れた途端に、たっぷり含まれた冷たい水がドッと湧き出る。イキがいいからである。冬は海鼠をはじめ牡蠣や蟹など、海の幸がうまい時季。海鼠酢はコリコリした食感で酒が進む。百鬼園先生のニンマリとしてご満悦な表情が目に見えるようだ。この句は明治四十二年「六高会誌」に発表された。「滾々」とはいささかオーバーな表現だが、ここでは句の勢いを作り出していて嫌味がない。冴えていながら、どこかしら滑稽感も感じられる。最初から「滾々・・・」という句ではなかった。初案は「わき出づる様に水出ぬ海鼠切る」だった。「わき出づる様に水出ぬ」では説明であり、「水」は死んでしまっているから、海鼠もイキがよろしくない。しかも「出づる」「出ぬ」の重なりは無神経だ。思案の後「滾々」という言葉を探り当てて、百鬼園先生思わず膝を打ったそうである。志田素琴らと句会「一夜会」をやりながら、独自のおおらかな句境を展開した。しかし、本人は当時の文壇人の俳句隆盛に対しては懐疑的で、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えないであろう」と言い、「余り流行しないうちに下火になる事を私は祈っている」とも言い切るあたりは、まあ、いかにもこのご仁らしい。ちなみに漱石や龍之介の俳句に対する百鬼園の評価は高くはなかった。『百鬼園俳句帖』(ちくま文庫)所収。(八木忠栄)


December 14122006

 雌の熊の皮やさしけれ雄とあれば

                           山口誓子

の頃は山に食べ物がないせいか里に降りてきた熊が人と出くわす事件がよく起きている。冬のあいだ雄熊はおおかた眠っているが、雌熊は冬ごもる間に子を産み育てるらしい。驚かさないかぎり人を襲うことは稀なようだが、穴に入る前の飢えた熊は要注意と聞く。この句の前書きに「啼魚庵」とある。浅井啼魚は妻波津女の父。大阪の実業家で、ホトトギス同人でもあった。その家に敷き延べられている二枚の熊の毛皮。それだけで見れば恐ろしげな雌(め)の熊の皮ではあるが、並べ置かれた雄(お)の皮よりひとまわり小ぶりで黒々とした剛毛すら柔らかく思える。雌雄一対にあってそれぞれの属性が際立つ。そう見れば毛皮にされてなお雄に寄り添うかのような雌の様子が可憐で哀れである。雌熊の皮を「やさしけれ」と表現する誓子の眼差しにしみるような情感が感じられる。義父宅を前書きに置いたのは、雌雄の熊の皮に新婚の妻と自分の姿を重ね合わせているからだろう。家庭的に不幸な幼少期を過ごした誓子が妻に抱くなみなみならぬ愛情が伝わってくる。即物非情・知的構成と冷ややかさが強調されがちな誓子ではあるが、その底にこのような叙情が湛えられていたからこそ、多くの俳人の心を惹きつけたのだと思う。『凍港』(1932)所収。(三宅やよい)


December 15122006

 ヘッドライトに老人浮かぶ聖夜かな

                           鈴木鷹夫

人を見かけることが多くなった。幾つから老人というのか、どういうのを老人ふうというのか、そんなことは定かには言えないが、とにかくあらゆる場所に老人が増えている。出生率が減りつづけ、子供は少なく生んで、過保護に育てる。医療は進み平均寿命は延びる。その結果必然的に老人が氾濫する、街にも村にも道路にも。老人やその医療に関する用語も溢れている、介護、痴呆、ケア、独居、寝たきり等々。ヘッドライトをどこに当てても老人が映っている。おお主よ!僕にとって感慨深いのは、全共闘世代と言われた世代が還暦になること。その世代の末端にいた僕は先輩たちの明晰な論理と勇猛なる行動に目を瞠り、鼓舞され、その後の生き方と考え方に大きな影響を受けた。ときには学籍や就職も捨てて、或いは、獄につながれても巨大な権力と闘った学生たちの多くは、その後、意を屈して権力構造に組み込まれていく。僕もまさしく。しかし、先輩、同輩たちよ、もう停年なのだ。資本から、もうお前は要らないと言われたら、退職金だけちゃんともらって、アカンベエをしよう。アカンベエじゃすまないぞ。どてっぱらに一発喰らわせてやる。四十年という時間を買ってくれたお礼参りをしようぜ。『鈴木鷹夫句集』(現代俳句文庫・1999)所収。(今井 聖)


December 16122006

 猫の耳ちらと動きて笹鳴ける

                           藤崎久を

告鳥(はるつげどり)とも呼ばれるウグイス、その鳴き声といえば「ホーホケキョ」。春まだ浅い頃に繁殖期を迎え巣を作った雄は、その声で雌を誘う。お互いの縄張りを主張し、タカなど大きい鳥を警戒するための谷渡りなど、人が古くから愛でてきたさえづりも、ウグイスにとってはまさに生きぬくためのものだ。やがて夏、ヒナが生まれ、秋を経て若鳥に成長、晩秋から冬にかけて人家の近くにおりてきて「チッチチッチッ…」と小さく地鳴きするのを、笹鳴(ささなき)と呼び、目立ってくるのは冬なので冬季となっている。やはりあたりを警戒するためというが、繁殖期と違い不必要に大きい声は出さない。一方の猫、犬以上の聴力を持ち、20m離れた2つの音源の40cmの差違を聞き分けるという。イエネコといえども狩猟本能は健在、笹鳴きに敏感に反応した瞬間をとらえた一句である。作者は日だまりでのんびりしている猫を見ていたのか、まず猫の耳がかすかに動く。その時、猫だけがウグイスの気配をとらえており、作者は気づいていない。と、次の瞬間小さく笹鳴が聞こえたのだ。動きて、が猫の一瞬の鋭い本能をとらえ、冬の日だまりの風景に余韻を与えている。阿蘇の広大な芒原に〈大阿蘇の霞の端に遊びけり〉という藤崎さんの句碑が建っている。句集『依然霧』の後書きには、阿蘇の自然への敬虔な思いと共に、「造化のまことの姿に自分を求めつつ、一つの道を歩きつづけるつもりである。」という一文が添えられているが、1999年惜しまれつつ亡くなられた。依然霧、三文字の短詩のようだが〈水音のしてきしほかは依然霧〉の一句より。『依然霧』(1990)所収。(今井肖子)


December 17122006

 湯屋あるらし小春の空の煙るかな

                           奥名房子

んびりとした冬の一日(ひとひ)を描いています。季語は「小春」、春という字が入っていますが、冬の季語です。冬ではあるけれども、風もなく、おだやかで、まるで春のように暖かい日を言います。湯屋とは、もちろん風呂屋あるいは銭湯のことです。「ゆや」というヤ行のやわらかい響きが、その意味になるほど合っています。「あるらし」と言っているところを見ますと、地元の風景を言っているのではなく、どこかへ出かけた先での情景でしょうか。それも、急で深刻な要件の外出ではないようです。昔の友人にでも久しぶりに会いにゆくのでしょうか。小さな私鉄の駅から降りて、人通りの少ない道を歩いてゆくと、地面に張り付いたように広がる背の低い街並みが見えます。じゅうぶんな広さを与えられた空が、目の前にゆったりと広がっています。その中空に、ひとすじの煙が上がっては流れ、空へ溶けてゆきます。あの下には、もしかしたら銭湯があって、のんびりと昼の湯に浸かっている人たちがいるのかしらんと、思っているのです。句全体に、「ら」行の響きが多用され、この外出の心を、より浮き立たせているように感じさせます。『朝日俳壇』(朝日新聞・2006年12月4日付)所載。(松下育男)


December 18122006

 肉体のかくもミケランジェロ冬へ

                           松田ひろむ

ダビデ像
ケランジェロは、言うまでもなく盛期ルネッサンスの三大巨匠の一人だ。有名なダビデ像をはじめとして、彼の創出した「肉体」は、その一筋一筋の筋肉描写までもが正確なことで知られる。さらに顕著なのは、その肉体の隅々にまで力がみなぎり、その力に魂がやどって輝いて見えるところだろう。単なる肉体美とは違う美しさだ。「かくも」肉体の信じられた時代があり、「かくも」肉体が雄弁に語った時代があった。現代人からすると、ほとんど信じられない肉体へのこだわりが、しかし無理なく私たちの心に沁み入ってくるのは、何故だろうか。揚句は「かくも」の内容には、いっさい触れていない。そこが良い。「かくも」の中身は、句を読んで、読者のなかに一瞬去来するものなのであり、その去来するものは、読者によってそんなに差の無いなにものかであるだろう。そのなにものかを素手で引っ掴むようにして、読者は作者とともに、寒くつめたく長い暗鬱な季節に立ち向かう勇気を得るのである。雄渾にして健康的な句だ。高村光太郎の「冬が来た」の一節を思い出す。「……冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」。「俳句研究」(2007年1月号)所載。(清水哲男)


December 19122006

 猪屠るかはるがはるに見にゆきぬ

                           大石悦子

ろそろ年賀状を考えなければならない時期である。毎年のように干支を年賀状で意識させられることもあり、十二支の動物たち、ことに自分の干支にあたる動物にはどことなく愛情を感じる人も多いだろう。来年の干支である猪は、昔から田畑を荒らす害獣でありながら、一方で貧しい村の飢えを満たす益獣でもあり「恩獣」という言葉も見られる生活に密着した動物であった。歳時記のなかでは、晩秋に山から下りてくる生きものとしての猪は秋、身体を芯からあたためる薬喰いの一種としての猪料理は冬の季語として分類されている。大きなもので百キロ近い獣が横たわり、村の男たちの手で解体され、生き物が肉塊となっていく行程はさぞや圧巻だろう。その現場をおそるおそる覗く者は、刃物をふるう一種の興奮状態からやや離れた位置で猪と対峙しているように思う。屍となり横たわる猪の宙を見据える目を、まざまざと感じてしまう距離である。同書に収められた〈闇汁に持ち来しものの鳴きにけり〉となると、その持参された「鳴く」ものに傾く哀れは一層濃くなる。万葉集巻16-3885にある「乞食者(ほかひひと)の詠」は、生け捕られた鹿が、その肉のみならず耳も爪も肝も加工され献上されていく様子を事細かに詠った長歌だが、最後に「右の歌一首は鹿の為に痛(おもひ)を述べてよめり)」の一文が添えられる。もし、掲句に添え書きがあるとすれば、それはやはり「猪のために痛みを述べて詠めり」だろうと思われる。『耶々』(2004)所収。(土肥あき子)


December 20122006

 徒に凍る硯の水悲し

                           寺田寅彦

田寅彦については、今さら触れる必要はあるまい。物理学者であり、漱石門下ですぐれた随筆もたくさん残した。筆名・吉村冬彦。二十歳の頃には俳句を漱石に見てもらい、「ホトトギス」にも発表していた。俳号は藪柑子とも牛頓(ニュートン)とも。さて、一般的には、現在の私たちの書斎から硯の姿はなくなってしまったと言っていいだろう。あっても机の抽斗かどこかで埃にまみれ、「水悲し」どころか干あがって「硯の干物」と化しているにちがいない。私などはたまに気がふれたように筆を持ちたくなっても、筆ペンなどという便利で野蛮なシロモノに手をのばして加勢を乞うている始末。「硯の水悲し」ではなく「硯の干物悲し」のていたらくである。その昔、硯の水にしてみればまさか「徒に」凍っているつもりではあるまいが、冬場ちょっとうっかりしていると机の上の硯に残された水は凍ってしまったり、凍らないまでもうっすらと埃が浮いたりしてしまったものだ。それほど当時の部屋は寒かった。せいぜい脇に火鉢を置いて手をかざす程度。いくら寺田先生だって、まさか筆で物理学の研究をしていたわけではあるまい。手紙をしたためたりしたのだろう。だとすれば、忙しさにかまけてご無沙汰してしまって・・・・とまで、この一句から推察できる。この「悲し」はむしろ「あわれ」の意味合いが強く、悲惨というよりも滑稽味をむしろ読みとるべきだろう。一句から先生の寒々とした部屋や日常までが見えてくるようだ。たとえば同じ「凍る」でも、別の句「孤児の枕並べて夢凍る」などからは悲惨さが重く伝わってくる。1935年に発表した「俳句の精神」という俳句論のなかで、寅彦は「俳句の亡びないかぎり日本は亡びない」と結語している。71年後の今日、俳句と日本は果して如何? 『俳句と地球物理』(1997)所収。(八木忠栄)


December 21122006

 冬ざるるリボンかければ贈り物

                           波多野爽波

れはてて眼に入るもの全て寂しく荒れた様子が「冬ざるる」景色。そんな寒々としたシーンを読み手の脳裏に広げておいて、リボンをかけた贈り物へきゅっと焦点が絞られる。きっちりと上五で切れた二句一章の句だが、冬ざれた景そのものにサテンのリボンをかけて贈り物にしたような大らかさも感じられる。今やプレゼントも四季を問わず気軽に交換しあうものになりつつあるが、冬の最大の贈り物と言えばやはりクリスマスプレゼントだろう。この日の贈り物については昔から様々な物語がある。ブッシュ・ド・ノエルと呼ばれるクリスマスの棒状のケーキは、贈り物を買えない貧しい青年がひと抱えの薪にリボンを結んで恋人に贈ったのが始まりとか。愛する人を喜ばせようと心をこめて結ばれるリボン。「リボンかければ贈り物」と当たり前すぎるぐらい率直な言葉が贈り物の秘密を解き明かしているようである。この句のよさを言葉で説き明かすのは難しいけど作者の心ばえが、冬ざれた景に暖かい灯をともしているのは確かだろう。もうすぐクリスマス。間近に控えた大切な夜のため、きれいなリボンをかけた贈り物が押入れの奥に、車のトランクにそっとしまわれているかもしれない。『波多野爽波句集』第2巻(1990)所収。(三宅やよい)


December 22122006

 亡き夫の下着焼きをり冬の鵙

                           岡本 眸

者の夫は四十五歳で脳溢血で急逝。その時の夫への悼句のひとつである。人はいつも見ていながら平凡な風景として特段に注意を払わない事物や事柄に、或る時感動を覚える。見えるもののひとつひとつが、それまで感じたことのない新しい意味をもたらすのだ。「下着」がそれ。俳句的情趣という「ロマン」を纏わない「下着」が或る日、かけがえの無い情緒をもったものに変わる。同じときに創られた一連の悼句の中のひとつ「夕寒し下駄箱の上のセロテープ」もそう。夫の死によって、「夫が遺していった」という意味をもった瞬間、下着やセロテープが感動の事物に変化する。僕等はさまざまな個人的な「感動」を内包するあらゆる事物や風景のカットに一日何千、何万回も遭遇していながら、それを「自分」に引きつけて切り取ることができない。「共通理解」を優先して設定するため、いわゆる俳句的素材や「俳諧」の中に感動の最大公約数を求めてしまうからだ。作者は三十代の頃、俳句と並行して脚本家をこころざし、馬場當に師事して助手を務める。日常のさまざまのカットの中にドラマの一シーンを見出す設定に腐心した者の体験がこの句にも生かされている。『岡本眸読本』(富士見書房・1999)所載。(今井 聖)


December 23122006

 装ひてしまひて風邪の顔ありぬ

                           田畑美穂女

邪は一年中ひくものだが、やはり風邪の季節といえば冬だろう。十二月になると、テレビでも毎年のように風邪薬のCMが目立ってくる。虚子に〈死ぬること風邪を引いてもいふ女〉という一句があるが、作者の田畑美穂女さんは、大阪の薬の町として名高い道修町(どしょうまち)の薬種商の家に生まれ、長く製薬会社の社長を務めた方である。風邪くらいで死ぬなどと言うのはもってのほか、仕事を休むこともせず朝からシャキッと着物を召し帯を締め終えて、さあ出かけようと鏡を見た。するとそこには、気持とはうらはらにぼんやりと風邪に覆われた顔が、正直に映っていたのだろう。装う、は身支度をすることだが、いつもより少し気の張った身支度だったのかもしれない。ああ、やっぱり風邪だわ、と思うとなにやら力が抜け、着付けた着物が急に重く感じられ、そのため息のような気持が、顔ありぬ、の下五に表れている。しかしそこで、その気持を一句にするところがまた、虚子門下の女傑、ユニークでおおらかと言われた所以であろう。ある句会の前、虚子に「昨晩、三句出句の句会で、四句先生の選に入った夢を見ました」と言い、虚子がその話を受けて、〈短夜や夢も現も同じこと〉という句を出したという逸話も残っており、その人柄句柄は多くの人を惹きつけた。『田畑美穂女句集』(1990)所収。(今井肖子)


December 24122006

 聖菓切るためにサンタをつまみ出す

                           松浦敬親

リスマスイブです。わたしの勤める会社は外資系企業なので、オフィスの中にもクリスマスツリーがいくつも飾られています。この季節になると、一ヶ月くらい前からさまざまな場所のさまざまなものに、光の服が着せられます。ついでながら、サンタクロースに赤い服を初めて着せたのは、コカコーラのコマーシャルでした。それがそのままサンタの服として定着してしまったもののようです。掲句、クリスマスケーキをテーブルに置いて、イブの夜、家族の顔がその上に並んでいるのでしょう。わたしもこの日は、横浜ダイヤモンド地下街をうろうろします。毎年、イチゴのショートケーキにするか、チョコレートケーキにするか、家族の反応をしばし想像し、楽しく迷います。この句の家には小さな子どもがいるようです。「サンタをつまみ出す」という言い方が、なんともぞんざいな響きで、笑いをさそいます。「さあケーキを切りますよ」というお母さんの声に、ずっと目をつけていたサンタに手を伸ばしたのは、たぶん末っ子です。どのデコレーションをだれがとるかで、子どもたちの間でひと悶着あるのかもしれません。「つまみ出す」という言葉が、これほどにやさしい響きをもつことができるのも、この日だからなのでしょう。では、素敵なイブの日になりますように。メリークリスマス。『角川俳句大歳時記 冬』(角川書店・2006)所載。(松下育男)


December 25122006

 安々と海鼠の如き子を生めり

                           夏目漱石

石の妻・鏡子は一度流産している。この句はその後に長女・筆子を生んだときのもので、作者の安堵ぶりがうかがえる。人間の子を「海鼠(なまこ)」みたいだとは、いくら何でもひどいじゃないか。そう思いたくもなるのだが、このときの漱石は気もそぞろ。今度は無事に生まれてくれよと、生まれるまで落ち着けなかった。当時は自宅出産だから、家の中を襖越しにただうろうろするばかりの男としては、元気な産声を耳にし、生まれたばかりの赤子を見せられて、ほっとしたあまりに思わずも本音が出たというところだろう。人間、安心すると、「なんだ、たいしたことなかったじゃないか」との安堵感から、憎まれ口の一つも叩きたくなるものなのだ。言い換えれば、普段通りの心の余裕のある顔つきで表現したくなってしまう。この句はそういう産物で、それまでの狼狽ぶりが書かれていないだけに、かえってそれをうかがわせる何かがあるではないか。漱石先生の頭は隠されているけれど、尻は立派に出てしまっているのだ。今日はキリストの誕生日。誰もそんな想像はしないだろうが、彼もまた、海鼠のように生まれてきたのかしらん。ところで「海鼠」は冬の季語だが、筆子の誕生は五月だった。したがって揚句は夏の句ないしは無季に分類すべきなのだろうが、歳時記の便宜上「冬季」に置いておきたい。この句に限らず、歳時記の編纂には、しばしばこうした悩ましさがつきまとう。坪内捻典・あざ蓉子編『漱石熊本百句』(2006・創風社出版)所収。(清水哲男)


December 26122006

 雪原の黒きが水の湧くところ

                           三上冬華

面の銀世界にぽつんと黒。一読ののち、はっとするのは、黒が闇や死を連想させるためか、おおむね凶事に傾くものが多いなかで、清らかな湧き水と結びつける違和感からであろう。しかし、銀世界のなかでは、黒点こそがこんこんと水が湧く場所なのだ。黒は雪を分けた大地の色だ。黒は凍結された空気のなかで、一点の瑞々しい命であり、大地があたたかく呼吸している場所なのである。何年か前になるが、年末年始を長野県栄村で過ごした。平家の谷と異名をとる秘境である。その谷底の村から見る景色は、まさに白い壷の底から見上げるような白一色の世界であった。色彩の一切許されないような雪原のなかで、一本の川の流れだけが黒々と輝いていた。雪原に記される動物たちの足跡は、水を飲むための川へと集まり、唐突に途絶えているものは、そこから飛び立った鳥たちであろう。鳥たちが落とす影など、普段意識したこともなかったが、雪の上ではあからさまにその姿を映していた。銀世界では、黒こそが命そのものとなり、豊かに刻印されているのであった。『松前帰る』(2006)所収。(土肥あき子)


December 27122006

 丸髷で帰る女房に除夜の鐘

                           古今亭志ん生

語家のなかには俳句をやる人が何人もいる。なかでも現・入船亭扇橋(俳号:光石)は高校時代から「馬酔木」の例会に出ていた。すでに秋桜子の『季語集』に二句採られているほどである。川柳を楽しむ落語家も少なくない。名人・志ん生もその一人だった。掲出句はご存知「飲む・打つ・買う」はもちろん、赤貧洗うがごとき波瀾万丈の人生で、妻りんさんに多大な苦労をかけっぱなしだった志ん生の句として読むと、なかなか味わい深いものがある。昔の大晦日は、特に主婦がてんてこ舞いの忙しさに振りまわされた。この「女房」を妻りんさんとして読めば、大晦日は借金取りに追いまくられ、金策に東奔西走し、さらに大掃除など、とても自分の髪などかまってはいられない。まさに落語の「掛取り」や「にらみ返し」「尻餅」を地でいくようなあんばいである。どうやら一段落ついたところでホッとして、ようやく髪結いへ。丸髷をしゃんと結って帰る頃には、もう除夜の鐘が鳴り出す。まだ売れていない亭主は手持ち無沙汰で、それでも女房が工面してくれた酒を、あまり冴えない風情でチビチビやりながら女房の帰りを待つともなく待っているのだろう。丸髷が辛うじて女房を救っている。この句は必ずしも志ん生夫婦のこととしなくてもいい。かつての一般庶民の大晦日は、たいていそんなものだったと思う。鴉カァーで一夜明ければ元朝。亭主は「松の内わが女房にちょっと惚れ」などとヤニさがっていればいいのだから、いい気なものだ。それでも落語家は元日からは寄席の掛けもちで、女房ともども目のまわるような忙しさがはじまる。年末年始を家族そろって海外で・・・・なんて、ユメのまたユメの時代のものがたり。「文藝別冊〈総特集〉古今亭志ん生」(2006)所載。(八木忠栄)


December 28122006

 門松や例のもぐらの穴のそば

                           瀧井孝作

日で仕事を納め、買物に家の掃除に本格的な年用意を始められる方も多いだろう。門松は神が一時的に宿る依代として左に雄松、右に雌松を飾るのだとか。物の本によると29日に飾るのは「二重苦」「苦を待つ」に通じ、31日は一日飾りと言って忌み嫌われるとある。お雑煮と同様、各地で竹の切り方や飾りのあつらえ方に違いがあるのだろうか。広島の田舎では裏山から切り出した竹を斜めに切り、裏白と庭の南天、松の枝をあしらった自家製の門松を門の両脇に括りつけていた。生まれ育った神戸ではそんな松飾りとも縁遠く、ホテルやデパートに据え置き式の門松を見るぐらいだった。あれは、植木屋さんに作ってもらうのか。終ったあとはどう処分されているのか、今でも不思議だ。この句の場合は門飾りではなく、据え置き式の門松だろう。「例の」とあるからもぐら穴は一家に馴染みのもの。騒動を起こしたもぐらをむしろ懐かしがっているようにも思える。主の消えた穴が門口に残っているのか、穴もろとも塞いでしまった跡なのか。どちらにしてもこのあたりと記憶に残る場所に見当をつけ、門松を置いている。今年一年の出来事を振り返り、家族総出で新しい年の準備をする気分が横溢した句のように思える。『浮寝鳥』(1943)所収。(三宅やよい)


December 29122006

 大寒や転びて諸手つく悲しさ

                           西東三鬼

十年ほど前の「俳句研究」で西東三鬼の特集があって、そこで三鬼の代表句一句をあげよという欄に加藤楸邨がこの句を選んでいた。ちなみに山口誓子選の「三鬼の一句」は「薄氷の裏を舐めては金魚沈む」だった。「人間」詠の楸邨、「写生構成」の誓子。二人の俳人としての特徴も選句に現れていて興味深い。一読、三鬼らしくない句である。三鬼作品は、斬新、モダニズム、二物衝撃が特徴。逆の言い方で言えば、奇矯、偽悪、近代詩模倣とでも言えようか。その三鬼が自らの格好悪い瞬間を自嘲気味に詠う。往来で転んで身を衆目にさらしたときの気恥ずかしさと惨めさ。きらきらした言葉のイメージの躍動とは正反対に、人間の愚かさのようなものが示される。三鬼門の俳人三橋敏雄に「雪ふればころんで双手つきにけり」がある。どこかの雑誌の依頼で、師から受け継ぐものの見方があるというような内容の文章を書き、これら二句を並べて鑑賞したら、早速敏雄さんから葉書が届いた。「あの句は僕の方が先です」とあった。作家意識をきちんと持った上で「師事」している一個の俳人の矜持を見た思いであった。『夜の桃』(1948)所収。(今井 聖)


December 30122006

 人々の中に我あり年忘

                           清崎敏郎

較的広い、いわゆる居酒屋のような店で飲んでいると、初めは、自分も含めてそこに居合わせた一人一人をくっきり認識しているのだが、酔いがまわって来るにつれ、すべてが独特のざわめきの中に埋没してくる。二度と同じ空間や時間を共有することはない多くの愛すべき人々は、言葉は交わさなくてもお互いに不思議な居心地の良さを作り出すのである。ただの酔っぱらいの集団でしょ、と言われれば否定できないし、静かなところでゆっくり飲むのが好きという向きもあろうが、このざわざわが妙に落ち着くのだ。作者がお酒を好まれたときいて、この句を読んだ時、そんな空間に身を置いて、ふっと我にかえってしみじみとしながらも、ひとりではない自分を感じている、そんな気がした。年忘(としわすれ)は忘年会のことだが、もとは家族や親戚、友人と、年末の慰労をするささやかなものをいったようである。歳時記を見ると、会社などの大人数のものを忘年会と呼び、千原草之(そうし)に〈立ってゐる人が忘年会幹事〉と、いかにも賑やかな雰囲気の一句も見られる。この句も、あるいは一門の納め句座の後の酒宴で、人々とは、共に切磋琢磨した句友なのかもしれない。ただ、年惜しむ、や、年の暮、ではないところで、つい酒飲み的鑑賞になってしまった。御用納めもすんで晦日の今日、連日の年忘にお疲れ気味、という方も多い頃合いか。しかしもう二つ寝れば今度はお正月、皆さま御大切に。「ホトトギス新歳時記」(1996・三省堂)所載。(今井肖子)


December 31122006

 年こしや余り惜しさに出てありく

                           立花北枝

うとう2006年も最後の日になりました。首相が変わり、北朝鮮が核を持ち、知事が次々と逮捕され、WBCで日本が優勝しと、さまざまなことがあった2006年も、もうすぐ終了します。やっと慣れてきた2006という数字も、あまり使われなくなり、目にあたらしい2007という文字を、明日からは書くことになるわけです。掲句、その年が終わるのが惜しくて、外を歩きまわってしまうという意味です。江戸時代に金沢の地で刀研ぎ商という職を持った北枝も、大晦日はいつものように朝から、刀に向かっていたのでしょうか。時刻が進むうちに、目は刀の光へ吸い込まれ、見つめる先は、自分という生命のあり方の方へ向かっていったものと思われます。「大切な時」、というものに突き動かされ、急に立ち上がって履物を履き、戸を開けて、ともかくも外の通りに出てきたのでしょう。いつもと違わない町並みに、けれど人々は、武士も町人も、男も女も、確かにこの日の厳粛さを身にまとって通り過ぎて行きます。時の区切り目を迎えるということがみな、切なくもあり、うれしくもあるのです。その気持ちは、平成の世になってもまったく変わらず、句にこめられた生命の厳かな焦りは、今にもしっかりと伝わってきます。残るはあと一日です。年が明ければ、たっぷりとした時間が待っていることはわかってはいても、残されたこの一日を、どのように大切に過ごすかを、わたしも考えてみたいと思います。では、2007年がみなさまにとって、とても良いものになりますように。『角川俳句大歳時記 冬』(角川書店・2006)所載。(松下育男)




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