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November 30112006

 外套のなかの生ま身が水をのむ

                           桂 信子

和30年代の冬は今より寒かった気がする。家では火鉢や練炭炬燵で暖をとり、今では当たり前のようになっている電車や屋舎での空調設備も整っていなかったように思う。時間のかかる通勤、通学にオーバーは欠かせない防寒衣。父が着ていた外套は毛布のようにずっしり重く、そびえる背中が暗い壁のようだった。厳しい寒さから身を守る厚手の外套は同時に柔らかな女の身体を無遠慮な世間の視線から守ってくれるもの。夫を病気で亡くし、戦争で家を焼失したのち長らく職にあった信子にとって、女である自分を鎧っていないと押し潰されそうになる時もあったのではないか。重い外套に心と身体を覆い隠して出勤する日々、口にした一杯の水の冷たさが外套のなかの生ま身のからだの隅々にまでしみ通ってゆく。その感触は外套に包み隠した肉体の輪郭を呼び起こすようでもある。逆に言えば透明な水には無防備であるしかないから厚い外套を着たまま水を飲んでいるのかもしれない。「生身」ではなく「生ま身」とひらがなを余しての表記に、外套からなまみの身体がのぞく痛さを感じさせる。彼女の俳句には緊張した日常の中でふっとほころびる女の心と身体が描かれていて、せつなくなる時がある。『女身』(1955)所収。(三宅やよい)


November 29112006

 湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事

                           小沢昭一

く知られている「東京やなぎ句会」がスタートしたのは1969年1月。柳家さん八(現・入船亭扇橋)を宗匠として、現在なおつづいている。小沢さんもその一人で、俳号は変哲。「隠れ遊び」には「かくれんぼ」の意味があるが、ここはかつて「おスケベ」の世界を隈なく陰学探険された作者に敬意を表して、「人に隠れてする遊び」と解釈すべきだろう。(「人に隠れてする遊び」ってナアニ?――坊や、巷で独学していらっしゃい!)「遊び」ではあるけれども、いい加減な仕事というわけではない。表通りの日向をよけた、汗っぽく、甘く、脂っこく、どぎつい、人目を憚るひそやかな遊び、それを真剣にし終えた後、湯気あげる湯豆腐を前にして一息いれている、の図だろうか。それはまさに「ひと仕事」であった。酒を一本つけて湯豆腐といきたいが、下戸の変哲さんだから、あったかいおまんまを召しあがるのもよろしい。万太郎のように「…いのちのはてのうすあかり」などと絶唱しないところに、この人らしさがにじんでいる。小沢さんは「クボマンは俳句がいちばん」とおっしゃっている。第一回東京やなぎ句会で〈天〉を獲得した変哲さんの句「スナックに煮凝のあるママの過去」、うまいなあ。陰学探険家(?)らしい名句である。「煮凝」がお見事。これぞオトナの句。2001年6月、私たちの「余白句会」にゲストとして変哲さんに参加していただいたことがあった。その時の一句「祭屋台出っ歯反っ歯の漫才師」が〈人〉を三人、〈客〉を一人からさらい、綜合で第三位〈人〉を獲得した。私は〈客〉を投じていた。句会について、変哲さんはこう述べている。「作った句のなかから提出句を自選するのには、いつも迷います。しかも、自信作が全く抜かれず、切羽つまってシブシブ投句したのが好評だったりする」(『句あれば楽あり』)。まったく、同感。掲句は『友あり駄句あり三十年』(1999・日本経済新聞社)の「自選三十句」より。(八木忠栄)


November 28112006

 どれとなく彼方のものを鶴と指す

                           谷口智行

国大陸より渡ってくる鶴は「鶴来る」として秋の季題となり、丹頂鶴は北海道の湿原で留鳥として暮らす。しかし、単に「鶴」といえば冬の季題となる。言われてみれば、鶴ほど冷たい空気が似合う鳥もないだろう。その気高い姿を日本人は昔から愛してきた。それは吉兆の象徴となり、祝いごとの図案や装飾などに使われ、現在もっとも多く触れる機会としては、千円札の夏目漱石氏の裏側にある丹頂鶴「鶴の舞」だろうか。しかし、その象徴の偉大さは実物を大きく超えて存在する。掲句においても、鶴の姿がことさら眼前になくとも、指さし「鶴」と呟いた瞬間、その遥か彼方にあるものは鶴以外のなにものでもなくなる。その景色は指さすことで完結し、まるで鶴がいた風景に永遠に閉じ込められてしまったようである。句集名『藁嬶(わらかか)』は、藁屑にまみれて働く農家の主婦のことだそうで、「身じろぎもせざる藁嬶初神楽」から取られている。「ぶらんこに座つてゐるよ滑瓢(ぬらりひょん)」「縫へと言ふ猟犬の腹裂けたるを」「雪降るか歌よむやうに猿啼きて」など、作者の暮らす土地が匂うように立ち現れる。その風土のなかで「鶴とは、よそ者の目には決して見えない生きものなのですよ」と静かに言われれば、そうであったのか、と思わず納得してしまうような気になるのである。『藁嬶』(2004)所収。(土肥あき子)




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