2006N1117句(前日までの二句を含む)

November 17112006

 あたたかき冬芽にふれて旅心

                           安土多架志

土多架志は三十八年しか生きられなかった。一九四六年に生まれ一九八四年に逝去。同志社の神学部に入り、牧師を目指すかたわら、キリスト者として学生運動に参加。山谷に潜入して政治活動をしたのち、香料会社に勤務、そこで組合を設立し、会社との対立は没年まで続いた。理論強化のために中央大学法学部通信教育課程に入学。「生産管理の合法性」という論題の卒論製作中に大腸癌発病。すでに末期(ステージIV)であることを自ら知る。当時、まだ癌告知は一般的ではなかった。しかも末期の状態である。医師は本人がキリスト者であることを知って告知したに違いない。それ以降、二年間、多架志は、癌と闘いながら、詩、短歌、俳句を書いた。俳句研究新人賞佳作、短歌研究新人賞佳作等、それぞれに才を発揮。「グリューネヴァルト磔刑の基督を見をり末期癌(ステージ・フォー)われも磔刑」などの短歌作品を収めた歌集『壮年』もある。安土多架志は僕より四歳上でちょうど全共闘世代の中心。権力と戦うことと、生きることが同義であると信じた生き方がそのまま経歴となっている。多架志はその生き方の酷烈さに比して優しい繊細な印象の青年であった。葬儀の日、礼拝堂に置かれた彼の棺に、山谷から駆けつけたオッチャンがいつまでも手を置いていたのが忘れられない。最晩年のこの句にも彼の優しさが見える。『未来』(1984)所収。(今井 聖)


November 16112006

 一枚の落葉となりて昏睡す

                           野見山朱鳥

核療養のため、生涯の多くを病臥していた朱鳥(あすか)晩年の句。「つひに吾れも枯野のとほき樹となるか」もこの頃の作である。体力が衰え、身体がきかなくなるのに最期まで意識が冴え渡っているとは、何と残酷なことだろう。回復の希望があるならまだしも、この時期の朱鳥はもはや死を待つばかりの病状であり、自然に眠りにつくなど難しい状態だった。病が篤くなるにつれ痛みも増し、薬を服用する回数も多くなるだろう。睡眠薬やモルヒネの助けを借りて眠りにおちる「昏睡」(こんすい)は突然、奈落の底へ落とされるような暴力的眠り。目覚めたときには眠りが一瞬としか思えないぐらい深い意識の断絶があり、それは限りなく死に近い闇かもしれない。晩秋から冬にかけて散った木の葉はもう二度と生命の源である樹につながることはできない。枝からはずれたが最後、落ちた場所で朽ちてゆくしかないのだ。身動きの出来ない身体を横たえたベットで息絶えるしかないことを朱鳥は深く自覚している。落葉は見詰める対象物ではなく、今や自分自身なのだ。「一枚の落葉となりて」という措辞に希望のない眠りにつく朱鳥のおそろしいほど切実な死の実感がこめられているように思う。『野見山朱鳥句集』(1992)所収。(三宅やよい)


November 15112006

 胸張つて木枯を呼ぶ素老人

                           佐藤鬼房

かにも鬼房。「素老人」は「すろうじん」であろう。鬼房には生前一度だけ、中新井田でお会いしたことがある。手書きの名刺を、緊張しながらおしいただいた。白い長髪を垂らして毅然とした痩躯の風貌は、氏の俳句から私が勝手に抱いていたイメージを裏切るものではなかった。まさしく「胸張つて」木枯でも炎暑でもやってこい、といった強い印象を与える「素老人」であった。もちろん奢っていたわけではない。“社会性俳句”や“新興俳句”など、この際どうでもよろしい。「素」になった老人にとって、木枯も寒冷も炎暑も恐るるにたりない。「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。逃げも隠れもせず、敢然として木枯を「呼ぶ」というふうに、激烈なものと向き合っているのだ。だからといって、嫌味のある老獪ぶりを誇示しているわけではなく、同時に己れを厳しく鼓舞している。ドラムを叩いて嵐を呼ぶ湘南あたりのアンちゃんがかつていたけれど、やからとはまったく別の、北の重心の低さ確かさがしたたかに感じられる。鬼房の第一句集『名もなき日夜』(1951)の序文で、西東三鬼は「鬼房は彼の詩友達と遠く離れゐて、極北の風と濁流に独り立つ。風化せず、押し流されず独り立つ」とすでに書いていた。鬼房は「極北の風と濁流」を貫き、みちのくで終生独り立ちつづけた、愚直なまでに。「切株があり愚直の斧があり」という代表句があるが、おのれをも「愚直の斧」たらしめて生きぬいた。掲句は1991年の作。句集『瀬頭』拾遺三句のうちの一句として、第十一句集『霜の聲』紅書房(1995)巻末に収められた。(八木忠栄)




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