2006N1116句(前日までの二句を含む)

November 16112006

 一枚の落葉となりて昏睡す

                           野見山朱鳥

核療養のため、生涯の多くを病臥していた朱鳥(あすか)晩年の句。「つひに吾れも枯野のとほき樹となるか」もこの頃の作である。体力が衰え、身体がきかなくなるのに最期まで意識が冴え渡っているとは、何と残酷なことだろう。回復の希望があるならまだしも、この時期の朱鳥はもはや死を待つばかりの病状であり、自然に眠りにつくなど難しい状態だった。病が篤くなるにつれ痛みも増し、薬を服用する回数も多くなるだろう。睡眠薬やモルヒネの助けを借りて眠りにおちる「昏睡」(こんすい)は突然、奈落の底へ落とされるような暴力的眠り。目覚めたときには眠りが一瞬としか思えないぐらい深い意識の断絶があり、それは限りなく死に近い闇かもしれない。晩秋から冬にかけて散った木の葉はもう二度と生命の源である樹につながることはできない。枝からはずれたが最後、落ちた場所で朽ちてゆくしかないのだ。身動きの出来ない身体を横たえたベットで息絶えるしかないことを朱鳥は深く自覚している。落葉は見詰める対象物ではなく、今や自分自身なのだ。「一枚の落葉となりて」という措辞に希望のない眠りにつく朱鳥のおそろしいほど切実な死の実感がこめられているように思う。『野見山朱鳥句集』(1992)所収。(三宅やよい)


November 15112006

 胸張つて木枯を呼ぶ素老人

                           佐藤鬼房

かにも鬼房。「素老人」は「すろうじん」であろう。鬼房には生前一度だけ、中新井田でお会いしたことがある。手書きの名刺を、緊張しながらおしいただいた。白い長髪を垂らして毅然とした痩躯の風貌は、氏の俳句から私が勝手に抱いていたイメージを裏切るものではなかった。まさしく「胸張つて」木枯でも炎暑でもやってこい、といった強い印象を与える「素老人」であった。もちろん奢っていたわけではない。“社会性俳句”や“新興俳句”など、この際どうでもよろしい。「素」になった老人にとって、木枯も寒冷も炎暑も恐るるにたりない。「素老人」は強引に「素浪人」に重ねても許されるだろう。逃げも隠れもせず、敢然として木枯を「呼ぶ」というふうに、激烈なものと向き合っているのだ。だからといって、嫌味のある老獪ぶりを誇示しているわけではなく、同時に己れを厳しく鼓舞している。ドラムを叩いて嵐を呼ぶ湘南あたりのアンちゃんがかつていたけれど、やからとはまったく別の、北の重心の低さ確かさがしたたかに感じられる。鬼房の第一句集『名もなき日夜』(1951)の序文で、西東三鬼は「鬼房は彼の詩友達と遠く離れゐて、極北の風と濁流に独り立つ。風化せず、押し流されず独り立つ」とすでに書いていた。鬼房は「極北の風と濁流」を貫き、みちのくで終生独り立ちつづけた、愚直なまでに。「切株があり愚直の斧があり」という代表句があるが、おのれをも「愚直の斧」たらしめて生きぬいた。掲句は1991年の作。句集『瀬頭』拾遺三句のうちの一句として、第十一句集『霜の聲』紅書房(1995)巻末に収められた。(八木忠栄)


November 14112006

 耳の奥かさと音して冬ぬくし

                           小野淳子

やお臍など、手ずからメンテナンスする身体の部位には、長年付き合ってきた独特の親しさがある。作者もいつからか耳の奥で「かさ」と音をたてるなにかに、わずかな愛着を感じている。とはいえ、掲句が耳鼻科医の目に触れたら「すぐに来院しなさい」と囁かれるかもしれない。立ち上がるたびに覚える軽いめまいのように、身の内から発信されるシグナルに「こんなものだ」と馴れようとする気持ちが、不調を見逃す大きな過ちであることも多いと聞く。しかし「耳の奥」とは、単に医学の範疇ではなく、奥の奥、すなわち顔の把手のような一対の耳にはさまれた大いなる空間を指しているものとも取れる。このたび興をつのらせ、あらためて耳の内部を図鑑で確認してみた。外耳から内耳へと細い道は続き、なんとも不思議なものに出会う。つち骨、きぬた骨、あぶみ骨なる小さな骨が連結して、鼓膜の振動を伝えているという。まるで騎馬隊がにぎやかに小槌を打ち鳴らしながら、中枢部へと馬を走らせているようである。さらに奥には前庭、蝸牛なる名称が続き、広大で風変わりな世界に迷い込んでいる心地となる。人体に宇宙がこっそりと収まるとしたら、それは胃袋でも、心臓でもなく、きっと耳の奥に違いない。冬の日だまりでゆっくりと頭を傾け、私の宇宙を回転させる。『桃の日』(2004)所収。(土肥あき子)




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