2006年11月14日の句(前日までの二句を含む)

November 14112006

 耳の奥かさと音して冬ぬくし

                           小野淳子

やお臍など、手ずからメンテナンスする身体の部位には、長年付き合ってきた独特の親しさがある。作者もいつからか耳の奥で「かさ」と音をたてるなにかに、わずかな愛着を感じている。とはいえ、掲句が耳鼻科医の目に触れたら「すぐに来院しなさい」と囁かれるかもしれない。立ち上がるたびに覚える軽いめまいのように、身の内から発信されるシグナルに「こんなものだ」と馴れようとする気持ちが、不調を見逃す大きな過ちであることも多いと聞く。しかし「耳の奥」とは、単に医学の範疇ではなく、奥の奥、すなわち顔の把手のような一対の耳にはさまれた大いなる空間を指しているものとも取れる。このたび興をつのらせ、あらためて耳の内部を図鑑で確認してみた。外耳から内耳へと細い道は続き、なんとも不思議なものに出会う。つち骨、きぬた骨、あぶみ骨なる小さな骨が連結して、鼓膜の振動を伝えているという。まるで騎馬隊がにぎやかに小槌を打ち鳴らしながら、中枢部へと馬を走らせているようである。さらに奥には前庭、蝸牛なる名称が続き、広大で風変わりな世界に迷い込んでいる心地となる。人体に宇宙がこっそりと収まるとしたら、それは胃袋でも、心臓でもなく、きっと耳の奥に違いない。冬の日だまりでゆっくりと頭を傾け、私の宇宙を回転させる。『桃の日』(2004)所収。(土肥あき子)


November 13112006

 焚火のそばへ射つてきた鴨

                           北原白秋

の農繁期を過ぎると、どこからともなく猟銃を射つ音が聞こえはじめる。少年期を過ごした村では、犬を連れた男たちが野ウサギなどを射つために、山に入っていく姿が日常的に見られた。だから、村では猟銃の発射音が聞こえてきても、誰もほとんど気になどはとめない。音のした方角を、ちらっと一瞥するくらいだった。獲物を提げた男が山をおりてきても、同様に誰も何も言わない。やはり、一瞥をくれるのみなのであった。揚句を読んで、そんなことが思い出された。鴨猟の仔細は知らないが、情景としては早朝の大きな川のほとりで、鴨射ちに来た人たちが暖を取るために焚火を囲んでいるのだろう。その焚火の輪の外から、影のように近づいてきた男が、獲物をどさりと置いた図だ。しかし、そのおそらくは見事な獲物にも、一瞥するだけで誰が何を言うでもなく、みな寡黙に手をあぶったりしているのだ。無愛想というのではなく、それは猟仲間の一種の仁義から来ているように思える。いちはやく大物を射止めた者は喜びを殺し、それに羨望する者もおのれのはやる心を殺すのだ。そうすることで両者の矜持は平等に保たれるわけで、見方によっては鮮烈なこの情景も、仁義の支えのためにごく日常的なさりげない空間と化していく。この句の字足らずは、そのような仁義の世界をとらえるための技法だと読んだ。作者がちらりと獲物の鴨を一瞥したところで、湧いてくる情念を抑えるように目をそらした感じがよく出ている。白秋にあまり優れた句は認められないが、この句はその意味で、作者にも快心の作だったのではあるまいか。『竹林清興』(1947)所収。(清水哲男)


November 12112006

 地の温み空のぬくみの落葉かな

                           吉田鴻司

の欄を担当することになってから三ヶ月が経ちました。同じ日本語でありながら、俳句がこれほど詩とは違った姿を見せてくれるものとは、思いませんでした。言わずに我慢することの深さを、さらに覗き込んでゆこうと思います。さて、いよいよ冬の句です。掲句、目に付いたのは「ぬくみ」という語でした。「ぬくみ」ということばは、「てのひら」や「ふところ」という、人の肌を介した温かさを感じさせます。ですから、この句を読んだときにまず思ったのは、森や林の中ではなく、人がしじゅう通り過ぎる小さな公園の風景でした。マンションの脇に作られた公園の片隅、すべり台へ向かって、幼児が歩いています。幼児の足元を包む「落ち葉」のあたたかさは、もとから地上にあったものではなく、空からゆらゆらと降ってきたものだというのです。きれいな想像力です。むろん、上から落ちてくるのは、鮮やかな色に染まった一枚一枚の葉です。ただ、この句を読んでいると、葉とともに、空自体が地上へ降り立ったような印象を持ちます。透明な空が砕けて、そのまま地上へかぶさってきたようです。人々が落ち葉とともに足元に触れているのは、空の断片ででもあるかのようです。句全体に、高い縦の動きと、深い空間を感じることができます。幼児のそばにはもちろん母親がいて、動きをやさしく見守っています。この日に与えられた「ぬくみ」の意味を、じっと考えながら。俳誌「俳句」(角川書店・2006年9月号)所載。(松下育男)




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