2006ソスN11ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 08112006

 据ゑ風呂に犀星のゐる夜寒かな

                           芥川龍之介

書で「すえふろ」は「桶の下部に竈を据え付けた風呂」と説明されている。昔、家庭の風呂はたいていそういう構造だった。子供の頃、わが家では「せえふろ」と呼んでいた。香り高い檜桶の「せえふろ」が懐かしい。犀星はもちろん室生犀星。龍之介よりも3歳年上。龍之介には俳人顔負けの秀句がじつに多いが、私はこの句がいちばん好きだ。俳句も多い犀星は、芥川氏を知って「発句道に打込むことの真実を感じた」と自著『魚眠洞発句集』に書いている。ゴツゴツと骨張った表情の犀星が、龍之介の家に遊びに来て風呂に浸かっているのか、自宅の風呂に浸かっている犀星を想像し、深夜の寒さをひしひしと実感しているのか。あるいは、旅先の宿で一緒に浸かっているのか(そんな二次的考察は研究者にまかせておこう)。風呂桶と犀星という取り合わせで、夜の寒さと静けさとがいっそう色濃く感じられる。熱い湯に犀星は瞑目しながら身を沈め、龍之介は細々と尖ったまま瞑想しているのだろうか。男同士の関係がベタつかず、さっぱりとして気持ちがいい。冴えわたっていながら、どこかしら滑稽味がにじみ出ている点も見逃せない。掲句は龍之介が自殺する三年前、大正十三年の作。犀星は龍之介の自殺直後の八月に、追悼句を「新竹のそよぎも聴きてねむりしか」と詠んだ。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)には1,014句がおさめられている。ふらんす堂『芥川龍之介句集』(1993)所収。(八木忠栄)


November 07112006

 拭ひても残る顔あり今朝の冬

                           藤田直子

と自分がここにいる不思議を思う瞬間がある。鏡を覗き込む顔も見知らぬ者のように映り、水にくぐらせた皮膚に冬の空気が通りすぎる感触さえ、どこかよそよそしく感じる。句集は作者が配偶者に先立たれた時間のなかで作られたものであり、掲句からは愛する者を亡くしたのちも実体のある自身を持て余すようなやりきれなさが伝わってくる。しかし、残された者には望むと望まざるに関わらず、連綿と日常が控えている。今日から冬が始まることは、同時に作者の新しい日々が始まることでもある。エジプトの王ツタンカーメンの棺には、妻アンケセナーメンが摘んだ矢車草の花が添えられていたという。暗殺説もある複雑な人間関係のなかで、夫婦の愛情だけは確かに育まれていたのだ。残された若きエジプト王妃もまた、悲しみを拭うように朝を迎えていたことだろう。「秋麗の棺に凭れ眠りけり」「そぞろ寒供花ふやしてもふやしても」「がらんどうの冬畳より立ち上がる」、途方もない虚無感がごつごつと胸を乱暴に駆け抜ける。長い長い時間をかけてようやく悲しみは、かけがえのない思い出となる。『秋麗』(2006)所収。(土肥あき子)


November 06112006

 秋風や煙立つなる玉手箱

                           永井龍男

者は小説家、俳号は「東門居」。ついに意を決して、浦島太郎が玉手箱を開ける。なかからはパッと白い煙が立ち上り、彼は見る見るうちに白髪の老人になってしまった。おなじみのクライマックスだが、しからばこの場面の季節はいつだったろうかと、妙なことを想像したところに面白さがある。言われてみれば、なるほど、秋風の吹く浜がいちばん似合いそうだ。太郎当人にしてみれば、悲嘆限りなし。秋風が非情に感じられ、吹きつのる風の寒さが、ますます肌に刻み込まれる。しかし、このシーンを誰かが目撃していたならば、一瞬びっくりもするだろうが、相当に滑稽でもあるだろう。ひとりの若者がもうもうたる煙にむせ返ったと思うまもなく、秋の風が白煙を吹き払った後によろめいていたのは、似ても似つかぬ老人だったのだから‥‥。当今の言葉で言えば、「ウッソー」とでも叫ぶしかない。当人には深刻、他者にはびっくり、滑稽。この世には、このようなことがしばしば起きる。素人俳人ならではの、気軽にして得意満面の発想と言うべきか。こういう句が句会で披露されると、座は大いに盛り上がること必定だ。専門俳人の句もいいけれど、たまにはこうした非専門家の突飛な発想に触れてみるのも楽しい。同じ作者で、「秋是」をもう一句。「秋風や瞼二重に青蛙」。『雲に鳥』(1977)所収。(清水哲男)




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