2006ソスN11ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 06112006

 秋風や煙立つなる玉手箱

                           永井龍男

者は小説家、俳号は「東門居」。ついに意を決して、浦島太郎が玉手箱を開ける。なかからはパッと白い煙が立ち上り、彼は見る見るうちに白髪の老人になってしまった。おなじみのクライマックスだが、しからばこの場面の季節はいつだったろうかと、妙なことを想像したところに面白さがある。言われてみれば、なるほど、秋風の吹く浜がいちばん似合いそうだ。太郎当人にしてみれば、悲嘆限りなし。秋風が非情に感じられ、吹きつのる風の寒さが、ますます肌に刻み込まれる。しかし、このシーンを誰かが目撃していたならば、一瞬びっくりもするだろうが、相当に滑稽でもあるだろう。ひとりの若者がもうもうたる煙にむせ返ったと思うまもなく、秋の風が白煙を吹き払った後によろめいていたのは、似ても似つかぬ老人だったのだから‥‥。当今の言葉で言えば、「ウッソー」とでも叫ぶしかない。当人には深刻、他者にはびっくり、滑稽。この世には、このようなことがしばしば起きる。素人俳人ならではの、気軽にして得意満面の発想と言うべきか。こういう句が句会で披露されると、座は大いに盛り上がること必定だ。専門俳人の句もいいけれど、たまにはこうした非専門家の突飛な発想に触れてみるのも楽しい。同じ作者で、「秋是」をもう一句。「秋風や瞼二重に青蛙」。『雲に鳥』(1977)所収。(清水哲男)


November 05112006

 たはしにて夜学教師の指洗ふ

                           沢木欣一

う40年も前になります。私の通っていた都立高校は、夜間もやっていました。同じ教室で、昼間とは違った生徒が同じ机を使用して授業を受けていました。朝、学校へ行って椅子に坐ると、机の上に自分のものとは違う消しゴムのかすが残っていました。数時間前にここにいた少年の存在を、じかに感じたものです。当時は意味も考えずに「定時制」という言葉を使っていました。昼間の学校も定時といえば定時なのに、何故かこちらのほうは「全日制」と言います。「定時」という言葉には、限られた時間の中に生を込めようとするものの、必死の思いを感じることができます。掲句、たわしで洗わねばならないほどのものとは何なのか、というのが真っ先に思ったことでした。指をたわしで洗うという行為は、自分にひどくこびりついたものを懸命に落している姿を想像させます。わざわざ「夜学」といっているところを見ますと、昼は別の生活を持ち、夜に教鞭をとっている人の、日々の困難さを暗示しているようです。夜に学ぶ生徒たちに会う前に、血がにじんでも落しておきたいものが、この教師にはあったのです。季語は「夜学」。勉強に適した季節という意味で、秋に置かれています。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


November 04112006

 十三夜に育つ月よと話しつつ

                           酒井郁子

三夜、後の月。今年は十一月三日、昨晩だった。後の月を愛でるに至った経緯は諸説あるが、日本だけの風習というのは一致するところのようである。初めて、十三夜、という言葉を認識したのは、中学の国語の時間、文学史の中の樋口一葉の小説の題名としての「十三夜」。主人公のお関は、当時で言えば玉の輿に乗るが、子をなしてから冷たくなった夫との生活に悩み、十三夜の晩に、そっと実家を訪ね、父母に離婚もいとわない思いをうちあける。しかし結局父親に諭され、自らの境遇を運命として受け入れ婚家に戻ってゆくのである。十三夜、の象徴するものは何なのだろう。15−2=13と見るならば、欠けていることになるその部分、お関の満たされない心、当時の社会への不満とも感じられる。しかし、13+2=15と見れば、もしかしたらこの先、もっと自由に満ちた時代が来るかもしれない、という、実生活でも苦しみの多かった一葉の希望が託されているようにも思えてくる。晩秋のひんやりと澄んだ空にうかぶ後の月。この句は、この月は育つ月、これから満ちていく月だ、と語っている。上六になっても、十三夜に、としたことで、月を見上げつつ二言三言、また見上げている様子が具体的に見える。小説「十三夜」が世に出て百年余、確かにある意味自由な時代にはなった。『笹目行』(1989)所収。(今井肖子)




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